勢いと辻褄
FirstUPDATE2022.10.12
@Scribble #Scribble2022 #フィクション @クレージーキャッツ 単ページ @クレージー大作戦 ブラックジャック 勢い 辻褄 省略

えと、ちょっとだけ面白い「まとめ」を見てね、んで、こんなことをことを書こうと思ったんだけど、ま、タイトル通りの話をしたいと思いましてね。

あくまでフィクションに限った話なのですが、もしかしたら<勢い>と<辻褄>は両立しない、極端に言えばかなり相反することなのではないかと。
って意味がわからないだろうから例を出す。例ったってマニアックな例だけど。
現在ちゃんと公開してないんだけど、2016年に「クレージー大作戦」という映画について長文を書いたことがあります。
ま、内容を憶えておられる方もおられないだろうけど、あえてその長文では書かなかったことを書くことにする。

映画をご覧になった方ならお判りでしょうが、ラストシーンはクレージーのメンバー全員でのダンス&シングになっています。
しかしあの「クレージー大作戦マーチ」を歌うラストシーン、あれ、台本では「ラスベガスのショウでバンド演奏をする」となっていたのです。
クライマックス間際に、ハナ肇のバスドラの中に現金を詰め込む重要なシークエンスがあり、これが伏線となる、というオチです。
ラストに至るまでの経緯を考えればバンド演奏の方が自然で、完成した作品も取ってつけたようようにバスドラがズームにしてエンドになるんだけど、正直あれでは何のことかよくわからない。

さすがにね、いくら勢い千万の古澤憲吾監督でも、台本が何を意味するかくらいはわかってたはずなんですよ。
しかし古澤憲吾は作品としての完成度を落としてでも、少なくともバンド演奏よりは派手なダンス&シングに変更し、いわばフィナーレに近い形にしたわけです。
つまりね、古澤憲吾は<辻褄>よりも<勢い>を重要視した、とも言える。辻褄が合わないことよりも辻褄の合わなさを感じさせないレベルで勢いがあれば、そっちの方がいい、そっちの方がより観客は満足感を得られる、と考えたと言い換えてもいい。

いや「クレージー大作戦」に限らず、とくに古澤憲吾監督が手掛けた東宝クレージー映画は、丹念に見れば辻褄の合わないことだらけなんですよ。
アタシはすべての東宝クレージー映画の台本をチェックしたわけではないのではっきりとはわからないけど、おそらく、それこそ「クレージー大作戦」のように「台本ではちゃんと辻褄が合うようになっていたけど、<勢い>重視の演出にしたことで辻褄が合わなくなった」なんてことは他にもあったと思う。

そもそもの話、フィクションにおいて「一縷の隙もないほど完璧に辻褄を合わせる」なんて不可能だと思っている。
フィクションには必ず「省略」というものが存在する。もちろん省略ばっかりなら辻褄以前に物語として成立しないんだけど、要所要所で「ここはイチからジュウまで全部言わなくてもわかりますよね」なんて感じで省略を用いるわけです。
当然のことながら一切省略を用いず、すべてのシーンを丹念に描けば、まァ、ほとんどの辻褄を合わせることは出来るわけです。

つまりは<説明>ですよね。だからこんなふうになるのですよ、という説明を徹底的に丹念にやれば辻褄の合わなさを感じづらくはなるんだけど、それはフィクションとしての面白さとは何の関係もないんですよ。
受取手は一部の、こう言っちゃナンだけど、特殊な人以外は「辻褄の合ったフィクション」を見たいわけではない。「面白いフィクション」を見たいのです。
もちろん、やたら辻褄にこだわった作品は説明がやたらと長くて冗長と感じやすい。つまり「面白いフィクション」からは外れてしまう。

上手いフィクションってね、ここのシーンの辻褄を合わせるのは大変だ、もし辻褄が合ってるように見せかけようと思えば無意味に尺を使ってしまう、となったら、あえて「辻褄が合ってるか合ってないか考えさせないレベルで<勢い>、つまりスピード感重視でやってしまおう」としている。
さすがに東宝クレージー映画っつーか古澤憲吾監督作品はいくらなんでも「<勢い>だけで片付けてしまおう」ってシーンが多すぎるんだけど、だからこそ、フィルムに異様なエネルギーが漲っているわけで。

もちろん東宝クレージー映画なんか特殊なケースだけど、冒頭に書いた「まとめ」にあった「ブラックジャック」のシークエンスなんか、話の初っ端なんです。

初っ端をタラタラ描いてたら肝心の、この話のテーマを描くページがなくなる。だからもう、とにかく辻褄無視で徹底的に<勢い>だけで事件が起こる、というふうにしているわけです。

結局、辻褄がほぼ完全に合っていて、しかも<勢い>のあるフィクション自体が無理なんです。
<勢い>を重視すれば<辻褄>は合わなくなるし、<辻褄>を重視すれば<勢い>がなくなる。
若干話は逸れるけど、フィクションが面白いのは、実はゆったりまったりした話ほどテンポが必要で、省略してやるところを省略してやらないと逆にゆったりまったり感が出ないんですよ。
ずいぶん前に書いたけど、小林聡美主演の「めがね」なんか、テンポが悪いからゆったりまったり感を感じない。前作「かもめ食堂」はちゃんと省略すべきところを省略してたから「ゆったりまったり」していたのにね。
要するに<対比>としてスパン!と行くところは行かないとね。つまり緩急ですよ。全球スローカーブじゃただ遅いだけけど、165キロの速球と組み合わせることでよりスローカーブが遅く感じるというね。

ただ昨今、やたらと辻褄にこだわる人がいるからね。フィクションのアラを見つけて喜ぶ御仁がね。
そういう「フィクションを見るのに向いてない人」は無視するとして、中には「<勢い>がないわりには、たいして<辻褄>も合ってない」なんてのもたまにあるし。
いやいや、<勢い>がないならせめて<辻褄>を合わせる努力はしようよ。