昨日の続きってわけじゃないけど、とにかく引き続きCGの話をしたいと思いまして。
念の為に昨日貼ったリンクをもう一回貼っておくけど、とにかく日本の駅舎をモデルにしたCGであることは間違いない。
で、この駅舎、どう考えても最近作られた駅舎ではない。まァ、ひなびた、という表現がピッタリの、悪く言えば古ぼけた駅舎です。
それを見事なCGに仕立ててあるのは本当に素晴らしいんだけど、こんな最高峰の短いデモでさえ「空気感」は再現されているとは言い難いわけで。
言い方を変えれば「古い駅舎のはずなのに<汚さ>がまったくない」という。
汚い、と言っても、粗いポリゴンとかガビガビのエッジがとかそういうことではない。
そうじゃなくて、CGって良くも悪くも<汚い>を表現することが本当に苦手なんだな、とね。
例えば廃工場のような場所が舞台設定のゲームなんかいくらでもあるけど、ぜんぜん<廃>に見えない。廃工場特有の汚らしくて埃っぽい感じがまったくないからです。
廃工場なんてね、入った瞬間に思わず「ウッ!」となるのような息苦しさと何とも言えないすえた臭いがある。うっかり設備品に手でも触れようものなら汚れと埃が入り混じったドロドロの油が手に付着する。
ゲーム中でそれがシーンとして再現されているかされてないかは問題ではない。そうじゃなくてプレーヤーの感覚で「ここは長居したい場所じゃない」と思わせないとダメだと思うんですよ。
汚さというのは、言い方を変えれば「人間がいた痕跡」とも言える。
これを逆に言えば、汚さが表現出来ない現今のゲームは「人間がいた痕跡がない」世界になってしまってるんではないかと。
アタシは以前「昭和をテーマにした施設のほとんどはつまらない。しかし新横浜ラーメン博物館だけは違う」と書いたことがあります。
新横浜ラーメン博物館(以下、ラー博)だって最初期は如何にも「作られた」感じで、いくら古ぼけて見せても汚さのカケラもなく、まったく「ここに人間が住んでいるんだ」みたいなのがなかった。
ところがラー博が誕生して20年以上経過し、天然の<汚さ>が出てきた。となると「人間の痕跡」が見えるようになって凡百の昭和施設と差異が出たのです。
アタシはね、過去にジオラマを仕事でやっていました。
ジオラマを作る上で重要なテクニックのひとつに「ウェザリング」というものがあります。ま、簡単に言えば<汚し>のテクニックで、普通にジオラマを作ってもテカテカで人間の痕跡が見えない。だからあえて汚すことで「人間が住んでた街」とか「人間が使ってきたモノ」というのを表現するという。
正直、CGはウェザリングを蔑ろにしすぎなんじゃないかと思ってしまう。
というか解像度とかfpsとか色とかはね、人間の脳内でいくらでも変換出来るんですよ。それこそ昭和の頃のテレビドラマなんか解像度他は今の基準からすればダメダメだったけど、そんなことは気にもしてなかった。
でも「人間の痕跡」を補完するのは無理ですよ。だって「人間の痕跡のない世界」として脳内処理されちゃうから。
でもね、もしCGのウェザリング処理がもっともっと発展すれば、昭和をテーマにしたような懐かしい世界観を再現したゲームはもちろん、とくにホラーゲームとかで威力を発揮すると思う。
序盤にちゃんと「人間がいる痕跡」の世界をしっかり見せることで、ヤバい場所に踏み込んだ時の怖さを喚起させられる。それが出来たらゾンビなんか出てこなくても十分怖いはずだから。それこそ廃工場に入った時の何とも言えないゾワッとした感覚というか。
ま、本当に「起動した瞬間にむせ返るようなゲーム」が求められてるかはわからんけどさ。いろいろ、潔癖気味の人も多いし。