瀬川昌久先生のこと
FirstUPDATE2022.6.19
@戦前 @笠置シズ子 #音楽 #体験 #追悼 単ページ @瀬川昌久 ジャズ ジャズで踊って ハットボンボンズ @栗原重一 ★Best PostScript

 あれは2005年のことだったと思います。
 戦前モダニズムという文化にハマりかけていたあの頃、アタシの中で一冊のバイブルと言える書籍がありました。それが「ジャズで踊って・舶来音樂芸能史」(以下「ジャズで踊って」)だったんです。


 著者は瀬川昌久。この人が高名なジャズ評論家であると知ったのもこの書籍で、それどころか、この書籍を読むまでのアタシは瀬川昌久という名前すら知らない超初心者だった。(実弟の、映画監督だった瀬川昌治は知ってましたが)
 冗談抜きに「ジャズで踊って」は名著中の名著です。何気なく、あっさり書かれている記述も「本当に深い知識とジャズへの愛」がなければ書けないものであり、それは繰り返し読み返し、ずいぶん経ってから気づいたことです。
 とにかく<バイブル>なんだから、まァいやこの書籍が知識の基礎なんだから、逆にこれがどれだけすごい著作なのかがわからない。最初は「ああ、なるほど、そういうことか」と思ったに過ぎません。

 2005年と言えばアタシがクレージーキャッツのファンサイトである「CrazyBeats」(現・CRAZY BEATS)を開設した年でもありました。
 しかし、クレージーキャッツのファンサイトは「早く準備が出来たから」という理由でオープンしただけで、もうひとつ、別のファンサイトを立ち上げる予定だったんです。
 それが笠置シズ子のファンサイトで、前々年の2003年に全曲集を購入して以来、ハマりにハマっていた。気分としてはクレージーキャッツよりも笠置シズ子の方が比重が大きかったくらいなんです。

 ただ、ファンサイトを立ち上げるには当時のアタシでは知識がなさすぎた。まだ当時のインターネットでは検索してもロクな情報がなかったし、笠置シズ子が活躍していた頃、つまり1940年代に発行されたリアルタイムでの文献も探す術すらわかってなかった頃です。

 そんな時「ジャズで踊って」という書籍を見つけた。
 何故「ジャズで踊って」なる書籍を手に取ったか、それはほんの少しでも笠置シズ子にかんする知識が欲しかったからです。もう、本当に理由はそれだけと言ってもいい。
 アタシは周りが見えていなかった。とにかく笠置シズ子のファンサイトを作りたい。それだけの理由で著者に手紙を書いたんです。
 もうその時の文面は残っていませんが、たしかこんな感じだったと思います。

「ジャズで踊って」、大変感銘をうけました。
さて私は笠置シズ子さんのファンサイトをインターネットに作りたいと思っております。
もしよろしければ一度お話しをお伺いすることはできませんでしょうか。


 今考えても「いきなり」だし、本当に不躾な手紙なのですが、何と、数日後、返事が来た。
 そしてそこには「笠置さんのファンサイト、是非作ってください」と。そして「いつでも遊びにいらっしゃい」という一文が書かれていたのです。
 ただし当時アタシは一時的に関西に居住しており、東京の瀬川宅までは簡単には行けない。
 そんなタイミングでクレージーキャッツのイベントがあった。
 「CrazyBeats」を立ち上げることで知り合った佐藤利明氏(アタシも参加した「植木等ショー!クレージーTV大全」の著者)に、何気なく「イベントのついでに瀬川宅を伺おうと思っている」と告げたところ、佐藤氏も「瀬川先生のお宅なら一緒に行くよ。ちょうど瀬川先生に聴かせたいものがあるんだ」となって、佐藤利明氏とあとひとり(誰だったかは失念)とアタシで瀬川宅に向かったのです。

 感覚としては、マジでこんな感じです。あの、瀬川昌久先生が目の前にいる!という感激でいっぱいだった。
 しかしこの時アタシはほとんど瀬川先生と話をしていない。正確には出来なかった。
 佐藤氏と瀬川先生は旧知だし、佐藤氏の用意した音源があまりにもすごすぎて(ずっと後に一部だけメディア化された)、アタシ如きが喋ることなんてなかった。
 それに、もう、目の前に瀬川先生がいる、というだけで緊張しすぎて、何か話を聞こうなんて出来なかったんです。

 次に瀬川先生にお会いしたのは2014年のことです。
 前回が2005年なので、何と9年も間隔が開いている。個人的な事情があったとは言え、今考えるとこの9年の空白は非常にもったいなかったと悔いが残ります。
 とにかく、今度こそ、ちゃんとお話しを伺おう、と心に決めていたし、この9年でアタシもオッサンになって、しかもいろいろとすごい経験をしたので少々のことでは緊張しなくなっていたのも大きい。
 だから、と言っちゃうとただの開き直りだけど、これ以降は「もうちょっと遠慮せぇ」と言われるくらい、何でも聞いたし、何度もお宅にお邪魔させていただいた。
 ってもうちょい早くやってればね。

 瀬川先生から伺った話は一切録音しておりません。
 もう、ただただ、もったいない、としか言えないんだけど、というか途中でそのことには気づいていたんだけど、それでも録音しようとは思わなかった。
 アタシはね、瀬川先生との対話はライブだと思っていたんです。一期一会。ライブアルバムが気の抜けたコーラみたいものなのと同様、後で録音されたものを聞き返してもしょうがない。というか「本当に録音されているか」なんてことに気を配るよりも、今、この時を大事にしたい、と思い、録音にかんしては思いとどまっていたんです。
 だからここから書くことは全部記憶にあることだけです。それを承知でお読みいただければと思います。

 瀬川先生のお宅に伺う際、一番悩んだのは「お土産」です。
 っても、いわゆるお茶菓子などの手土産じゃないよ。そうじゃなくて、本当に瀬川先生に喜んでもらえるもの、となると、やっぱり、戦前ジャズにかんすることしかない。
 かと言ってアタシなぞ、それこそ先ほどの佐藤利明氏の「とんでもない音源」のようなものが用意出来るわけがない。
 アタシがやれることと言えば、手持ちの映画から音楽を抜き出してCDに焼くことくらいしかない。しかしそれも限界がある。
 一度ね、瀬川先生に見せるだけに「ザッツエノケンテイメント」(当然「ザッツエンターテイメント」のモジリ)というダイジェスト映像を作ったことがあります。

 戦前エノケン映画から歌唱シーンを抜き出し、違和感のないようにつなげていく。ま、鴨下信一が編集した「クレージーキャッツデラックス」の戦前エノケン映画版です。

 「クレージーキャッツデラックス」との最大の違いは、一秒たりとも音楽を途切れさせないようにしたことです。
 そのためにまず構成を練って、音源だけをリミックスしていき、後から映像を合わせるという途轍もない編集をやりました。
 70分もの長さでこれをやるのは本当に大変で、どうやっても映像と音楽がシンクロしないところもあってね。
 それもこれも、瀬川先生に喜んでもらいたい、その一心だけでやったことです。

 当たり前すぎる話ですが、アタシの知識と瀬川先生の知識は月とスッポンどころじゃない。この時点ですでに瀬川先生はかなりの高齢でしたが実に頭脳明晰で、実に細かいところまで記憶されておられました。
 仁木他喜雄のすごさだったり、松竹楽劇団が如何に画期的だったか、またハットボンボンズの話やミミー宮島の話、あとタアキイ(水の江瀧子)の話も印象深い。

 あ、興味のない方にはさっぱりな名前ばっかり、興味のある方には基礎的知識レベルの名前ですが、とにかくこんな感じで書いていきます。

 アタシも調子に乗ってね、エノケン一座のコンポーザーで戦前エノケン映画の音楽のほぼすべてを担当した栗原重一のことを熱く語ったりなんかして。もうまさしく釈迦に説法もいいところなんですが、瀬川先生はずっと、笑みを絶やさずアタシの駄弁を聞いてくださいました。
 しかし怒りをあらわにする時もあった。
 たまたまジャズ黎明期の立役者と言える某氏の話になった時、某氏のあのやり方はズルすぎる、今でも許せない、と怒りを隠しませんでした。

 もちろん瀬川先生は私怨で怒ったのではありません。
 たぶん瀬川先生ほど、ジャズという音楽はもちろんジャズという<文化>を愛した人はいなかったと思う。だからこそ、某氏のジャズ文化を破壊する行為が許せなかったんです。
 そして、それは真逆のことが言える。
 繰り返しになりますが、瀬川先生とアタシの知識は月とスッポンどころではない。いや知識どころか<愛>もアタシははるかに及んでいないと言っていい。
 しかし、目の前にいる、この男(=アタシ)が、本気で戦前期のジャズが好きだってことだけは伝わったと思う。だからこそ、アタシの空回りな駄弁もにこやかに聞いてくださったんだと思うんです。
 いやね、瀬川先生からしたらアタシの駄弁なんて「当たり前の話」でしかなかったと思うんですよ。それでも、たぶん、これだけ好きな男がいるんだ、というのが嬉しかったんだと思う。だからにこやかに聞いてくれたのでしょう。

 瀬川先生は貴重極まる話を聞かせてくれるだけではなく、実に貴重な資料も快く貸してくださった。
 当然、あの、瀬川昌久から借りたものなんだ、となったら、家に帰って、目を皿にして読む、見る、聴くわけで、これでもう、アタシは完全に、戦前ジャズの虜になったんです。
 いわば、瀬川先生によってアタシはマニアに昇格することが出来た。
 もちろん、専門家の人からすればアタシなんて「マニアの入り口にやっと立ったところ」なのは重々承知なのですが、それでも確実に、今のアタシは、知識も愛も一般人レベルではない。
 言い方を変えれば、アタシは瀬川先生に「マニアにさせられた」のかもしれません。メチャクチャ酷い言い方だけど、そう言えば一度、こんなことを言われたことがあります。

「あなたなりのやり方で、次の世代にジャズの魅力を伝えていって欲しい」

 世の中には「なくしちゃいけない」ものがあるんです。もう、誰も興味がなくなっても、誰かが薪をくべて絶やしちゃいけない<火>がある。
 瀬川先生はアタシだけではなく、数多の人たちに「戦前ジャズの火を絶やさない」という「願い」を託した。
 山田参助とG.C.R.管絃楽団という「戦前ジャズバンド」のサウンドの再現を標榜して「大土蔵録音」というアルバムをプロデュースした保利透氏、二村定一の評伝やSPレコードのことを専門的に書いた書籍などを発表している毛利眞人氏、今や浅草オペラ研究の第一人者と言える小針侑起氏、そして先に名前を出した佐藤利明氏など、いわば「瀬川昌久の愛弟子」とも言える人材を育てたのです。
 瀬川昌久先生は戦前ジャズを研究する者にとって、どんな時も精神的支柱であり続けた。そして、もし、瀬川昌久が号令をかければ何をおいても駆け付ける人たちばかりだったはずです。

 2021年末、瀬川昌久先生は逝去されました。
 アタシは瀬川先生からふたつの宿題をいただいた。いや、アタシがそう思ってるだけかもしれないけど、これだけは命がなくなるまで胸に留めておきたい。
 ひとつは先ほど書いた「自分なりのやり方で戦前ジャズを後世につなげて欲しい」ということ。
 そしてもうひとつは、そもそもアタシが瀬川先生を知るきっかけとなった「笠置シズ子のファンサイトを作る」ということです。
 もちろん、笠置シズ子の話も、そして服部良一の話も、いろいろお聞かせ頂いたのですよ。録音こそ残ってないけど、確実に血肉となってる。だから、もしわからないことがあっても自力である程度は調べられる自信はついた。
 実際にやるとなると時間はかかるけど、これは約束だからね。マジで、やります。

 ですよね瀬川先生。まだまだこれから、ですよね。本当に自分の<やり方>でしか出来ませんが、アタシは末端なりに意思は受け継いでいきます。

まずはカバー画像の話から。
向かって右はもちろん瀬川昌久先生ですが、左はアタシです。
顔は隠しているとはいえ本邦初公開、と言えば大仰だけど、本当は顔以外の箇所も晒したくなかったんです。
でも、これは、瀬川先生のエントリだから、と思えば、わりとすんなり受け入れることが出来た。つまりアタシにとってそれくらい、絶対的存在なんです。
というかね、ここまで当たり前のように瀬川<先生>呼ばわりで書いてきたけど、こんな、何の躊躇もなく、心の底から<先生>だと思えた人は過去にいない。だからもう、瀬川昌久と言えば瀬川昌久<先生>なんですよ。
しかし、本音を言えば、何でって気持ちがある。いや年齢的にはそりゃそうかもしれないけど、先生が逝去されて、なんて書きたくなかったもん。
せめて、追悼文にはしないでおこうと思った。結果的に追悼文めいた内容ではあるんだけどさ。




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