えと、なるべく、空いた時間を使ってね、神戸の歴史(っても近代史だけど)を調べているのですがね。まァ、そんなに長く神戸にはいないつもりなんで。
もちろん文献っつーか文章からあらたな事実がわかることもあるのですが、やっぱ、文章よりも写真のが強いんですよ。
文章ってのは「作者が意図しないことはあまり露呈しない」のです。あ、<あまり>ですからね。ぜんぜん、ではないよ。
しかし写真は違う。
撮影者がまったく意図しない、そんなものが写り込んでいるか何も気にしていない、そこに「あ!」と思うことが隠されていることが多いんです。
例えば、ただの古いスナップ写真、しかもメチャクチャ<ほのぼの>としたもののはずなのに、時間の経過によってきわめて残酷に「事実」を写し出している、なんて珍しいことではありません。
これは写真だけではなく雑誌や新聞なんかの印刷物もそうなんだけど、こういうものって「後世の人間が見た時にどのように見えるか」なんて何の意識もしてないんです。当たり前だけど、リアルタイムで「どう見えるか」しかないし、もし仮に意識していたとしても「将来、実はココが写ってることが重要になる時代が来る」なんて当てられるわけがない。
建築物ひとつとっても、後何年、このままの姿でこの建築が存在するのか、なんて絶対にわからないわけで、ある意味科学の発展的な未来予測よりも難しいんだからね。
というかね、最近つくづく思うのは、戦前・戦中のものも「あれ?意外と今と変わってないな」と思うことが多いんですよ。
それこそ赤紙とかね、そりゃ旧字体が使われていたりはそうなんだけど、記入する項目とか、ま、フォーマットですよね、は今の公的な書類とあんまり変わってない。
当然のことながら、今はこういう書類でもパソコンで作るのは当たり前だろうし、印刷自体もずっと手軽にはなってるんです。だからそこに文化の発展を見い出すことは簡単なんだけど、それは最終アウトプットの段階の違いであって、人間っつーか日本人なんてたいして変わってないな、と思わざるを得ない。
ま、何というか、文字ではなかなか過去に想いを馳せることが出来ないのは「人間なんてそう簡単に進化しない」というのが顕著すぎるっつーか。
そこが写真はぜんぜん違うんですよ。
ファッションとか建築とかデザインとか、そういうものを全部取っ払ったとしても、写真には空気感も内包されている。んで空気感中心でその写真を見ていくと「本当に変わったのは何なのか」に気づけたりするんです。
とくに1970年代くらいの写真を精査する時は「ファッションや建築やデザインに惑わされない」というのは重要で、そこに惑わされると非常に浅いものになってしまう。
そりゃあ、1970年代なら、若い女性はミニスカートを履いてますよ。でもそんなのパッと見たらわかる話で、んな「誰でも知ってる」レベルのことを調べたいわけじゃないんです。
アタシが知りたいのは「空気感」です。そして空気感を中心に調べたからこそ気付ける時代の残酷さを抽出したい。
ま、あれですよ。アイロニーを如何に無視出来るか。ってとうとうアイロニーって言葉を使ったぞ!←6年越しの伏線回収