エピソード1.5を内包する
FirstUPDATE2022.6.4
@Scribble #Scribble2022 #特撮 #映画 単ページ シン・ウルトラマン ドラえもん エピソード1.5 庵野秀明

えと、木曜日のエントリに「続きは明日」って書いちゃったけど、ぜんぜん無理だったね。ま、そんなもんですが、とにかく「シン・ウルトラマン」の話の続きです。

何度も何度もしつこいのですが、アタシはCG版ドラえもん、つまりスタンドバイナンチャラは一切認めていません。
理由は本当にいろいろあるけど、とにかく「感動モノ」に仕立てるのに「さようならドラえもん」とか「のび太の結婚前夜」なんかのエピソードも持ってくる時点でセンスがない。
だったらどうすりゃ良かったんだって話ですが、アタシは2016年2月にこんなことを書きました。

どうしても感動話に持っていきたいのなら、そして一切原作を汚さずにオリジナル脚本でやりたいのであれば、やりようがあると思うんです。
(中略)
「ドラえもん」という作品は長期に渡って連載されたこともあり、いくつか「ふらふら」した設定がある。
連載第一話と同時に掲載されたキャラクター一覧の説明は、のちの設定と大幅に変わっていますが、中でものび太のパパとママの設定が極端に変わっている。
(中略)
これを利用すればいいんです。
たしかにドラえもんがのび太の家に来た時点では、両親は度を超えて甘かった。ところがご存知のような口やかましいキャラに変貌した。
何故変貌したのか、ドラえもんという存在が来て何が変わったのか、つまりは第一話と第一話から第二話の間の話ですよね。それを丹念に描けば「原作を汚さず」オリジナル脚本が作れたと思う。

これを本当にやったのが「シン・ウルトラマン」です。
ウルトラマンが地球人にどうやって<認知>されたのか、何故一部の怪獣は造型が瓜二つなのか、など、大人の事情(というか創作上の都合)で語られなかったことを「今っぽい解釈」を加えながら物語が進行していく。
つまり、映画でありながら第二話以降を物語りながら同時進行で「エピソード1.5」とでも言うべきハナシを盛っていく、という。

これは庵野秀明の「ウルトラマン<愛>」の強さの現れです。
つまり原作というか原典の<勘所>はイジりたくない。でもオリジナル解釈も盛り込みたい、となったらエピソード1.5を要所で盛っていくしかないと思うんです。
「ウルトラマン」のことをまったく知らないアタシでも、それは本当によくわかる。わかるんだけど、ちょっとね、盛り込みすぎなんですよ。
しつこいけど「ウルトラマン<愛>」のないアタシからすれば、ザラブとメフィラスを分ける理由がわからない。どちらかに絞るか、それともふたつのエピソードを合体させてね、つまりもう少しコンパクトにして、ゼットンとの戦いに時間を費やすべきだったんじゃないかと思うんですがね。

正直、あそこの尺が長すぎて、他が駆け足になってるんですよ。それでもそれなりにまとめてはいるんだけど、随所に<粗>が見えるのが本当にもったいない。
メフィラスのケリとか、原典を知らないアタシからすれば「へ?」って思ったもん。何というか、それでいいのかよ、と。
あと、誰かが指摘していたけど「シン・ゴジラ」で徹底的にこだわったとおぼしい、舞台っつーか地名をはっきりさせるってのも一切されてないのももったいない。もちろん意識的ではあるんだろうけど、それも「エピソード1.5」になるんじゃないの?

「シン・ゴジラ」は良くも悪くも緻密だったのが、「シン・ウルトラマン」はとにかく<雑>になってるわけでね。
いやね、アタシは特撮っつーか円谷プロの作風は知らないけど、これが「東宝作品」とするなら<雑>な方が「より東宝っぽい」とは言えるのですが、でもだったら逆だよなぁ。どっちかって言ったら「シン・ウルトラマン」のが緻密にやるべきだったんじゃないかとね。

まだちょっと書き足りないので、続きは来週。ま、<来週>ってくらい幅をもたせておけば大丈夫でしょう。







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