これ、最近つとに思うのですが、文章を書く上で優れた作者とは「如何に読者の読み進めるスピードをコントロール出来るか」ではないかと。
えと、1993年でしたか、に「谷口六三商店」というドラマが放送されました。
原作というか脚本は「ちびまる子ちゃん」のさくらももこですが、このドラマを制作したKANOXの創始者であり、「谷口六三商店」でも演出を手掛けた久世光彦が面白いことを語っていたのをおぼえてる。
何故、さくらももこに脚本を?という問いに「さくらももこさんの漫画は普通の漫画を読むより倍時間がかかる。しかしさくらももこさんのエッセイは普通のエッセイの半分の時間で読める」と。
本来、漫画には漫画を読むだけに必要な時間、エッセイならエッセイを読むのに必要な時間、みたいなのがあります。しかしさくらももこの場合、漫画エッセイどちらも「さくらももこの<間>」で描かれており、漫画にしては時間がかかる、エッセイにしては時間がかからない、というね、つまり久世光彦は「さくらももこはそれほど完璧に読者の読み進めるスピードをコントロール出来ている。そんな人がドラマの脚本を書いたら従前のドラマのテンポにとらわれない、独特なものが出来る」と言ってるわけで。
本というか文章や漫画が面白いのは、ページをめくるスピードをある程度受取手に委ねているところで、そこが映画や音楽とは決定的に違います。
しかし完全に委ねてしまうとよろしくない。多少は個々の読むのが速い遅いはあるとしてもその人なりの基準スピードはあるはずで、それを踏まえた上で「ここはスピーディーに読み進めて欲しい」とか、逆にここは「一文字一文字噛みしめるように読んで欲しい」という、いわば緩急をつけていくのです。
この緩急が素晴らしければ、多少内容がなくても読者は気持ちよく読み進めることが出来る。
これが上手かったのが久世光彦の盟友である向田邦子で、もしかしたら久世光彦はさくらももこに向田邦子の影を見たのかもしれません。
いや、話を強引につなげるため向田邦子の名前を出しましたが、実際問題優れた著述家はみな、本当に読者コントロールが上手い。
緩急の付け方をちゃんとやろうと思うなら、そもそも筆者の想定通りに「ここは速く」とか「ここはゆっくり」を実現させるだけの文章力が必要なのです。
「内容は濃いが面白い本ではない」という、アタシ的に言えば論文的な文章がありますが、この場合、そもそも読者の読み進めるスピードをコントロールしなきゃ、という意思が見えないことが多い。
さらに言えば読み進めるコントロールだけではなく、詰め込んだ情報を読者に整理する時間を与えるためにクールダウンというか箸休め的なことをあえて書いて「読者の頭の中をコントロールする」なんてことも、優れた著述家は出来ています。
論文的な文章は読みづらいので拒絶反応を起こす人が多い。ま、当たり前です。
しかし世にある教科書や参考書、はたまた使い方Tipsのような書籍はほとんど論文的に書いてる。これでは嫌になるのもわかります。
変な話、そういうね、研究とか勉学の要素があるものほど「論文的にならないように読者コントロールしてやるか」を考えなきゃいけないんだけど、ま、なかなかね、難しいみたいで。
ま、何でこんなことを書いたかはまた後日。