えと、まだ藤子不二雄の安孫子素雄先生の死を受け入れられたわけではないのですが、とにかく、今の時点で書けることを書いておこうと。
安孫子先生がメインで描かれたもので、個人的ナンバーワンは「フータくん」に決まっている。あ、「フータくん」については↓に書きました。
で、その次、となると、やっぱり「まんが道」となってしまうわけで。
Twitterのタイムラインにも様々な追悼ツイートが流れてきましたが、現役の漫画家の方で「まんが道を読んで漫画家を志した」という人が本当に多いなと。もちろん追悼なんだから多少は盛ってるんだろうけど、多感な時期に「まんが道」を読んで、よし、自分も、となる気持ちはよくわかるんです。
で、さらにその次となると、かなりマイナーになってしまうんですが、アタシは「万年青」ではないかと。
「万年青」は短編で、しかもブラックユーモア短編集に含まれるケースが多いのですが、これはブラックユーモアではない。
話としては万年青(<おもと>と読むがタイトルには<まんねんあお>とルビがふってある)という植物を溺愛する少年の話であり、実に苦い青春譚になっています。
エントリタイトルの<青春光>は主人公が「自分の理想とする万年青が完成したら、それに<青春光>と名付けたい」としたもので、つまり、夢想以外では<青春光>は登場しません。
ハナシとしては劇的でもなんでもないので印象に残りづらいとは思うんだけど、とにかく空気感がすごい。ここまで見事に「陰キャの青春」を描いた作品はちょっとお目にかかれない。
個人的には、このテイストで長編の苦い青春譚を描いて欲しかったなと思うけど、ま、それが「まんが道」ってことになるのか。
でも「万年青」はマジで一度読んで欲しい。ブラックユーモアという先入観を捨てて、その空気感を存分に味わって欲しいと思うわけで。
さて、ちょっと話の方向性を変えます。
安孫子先生は藤本弘先生を終生の友とし、一度たりとも藤本先生を貶めるような言動はなかった。どころか「藤本は天才だった」という発言を繰り返しました。
藤本先生が天才だったことへの異論はない。しかし、ほぼ同じ資質と同じだけの才能があり、同じくらいの傑作を生み出したことは事実であり、もう本当に性格が違いからくる作風の違いがあるくらいで「安孫子先生、藤本先生が天才なら安孫子先生も天才ということになるよ」と言いたい。
「まんが道」にかんしては長文を書く準備はしていたんだけど、なかなか書けなかった。
その理由は、空気感への言及を文章で表現するのがきわめて難しいからです。
あの世界に流れる、もう類似作品が一切思いつかない、独特の、桃源郷のような空気感は真似して真似られるものではない。
あの空気感かあるからこそ、単なる成功譚でも青春譚でもない、多幸感に溢れていて人々の心を掴んで離さない作品になってると思うのです。
こんな作品、努力で描けるものじゃない。ひと言で言えば「天才しか描けない」んじゃないか。
アタシはね、安孫子先生こそ「青春光」と言えるような人だったと思う。
人間の業をいっぱい描いてきたし、ブラックユーモアを得意としたことを考えるならメチャクチャヒネてるように思うかもしれないけど、ある意味、こんな真っ直ぐに「まんが道」を歩いてきた人はいないんじゃないか。
真っ直ぐだから作品が醒めてない。熱を帯びていたり、ほんのりあったかかったりは作品によって違うけど、どんな悲惨な結末の作品でも熱量がある。
つまり、根本から登場人物を突き放していない。本当に真っ直ぐに物事と向き合っているのがわかるから、どんな結末でも不快感が一切ないんです。
あの世に行ったのも、ただ、青春光のように真っ直ぐに伸びた結果だったと思う。おそらく今度は藤本先生や手塚治虫先生、そして和代氏(夫人)の元へ真っ直ぐ向かって行っただけです。
安孫子先生、アタシもいずれそっちに行きますから、その時は握手のひとつでもしてください。