いや、大上段に振りかぶって「スマホの影響でウンチャラカンチャラ!」と言いたいわけではなくてね、実に軽い「そういや、あれはスマホの影響だな」ってのを思いついたもので。
昔、みうらじゅんが大阪万博の思い出を語っていたことがあって、友人たちの間で「出来るだけ多く外国人のサインを貰う」ってのが流行ったらしい。
ま、外国人ったって有名人でもなんでもない。コンパニオンだったり、ただの観光客だったり、とにかく外国人だったら誰でも良かったと。
これは現今に比べて、1970年当時は街中で外国人を見かけることが少なく(ま、今はコロナだから外国人の姿も減ってるけど)、つまりそれだけ「外国人というだけで、少なくとも子供だったみうらじゅんには貴重な存在」だったというね、いわば時代の証明です。
逆の言い方をしましょう。
2025年に2回目の大阪万博が予定されていますが、次の万博で、みうらじゅんと同じようなことをする子供が現れるか、というと絶対に現れないと言い切れます。
もちろん単純に、もはや外国人が珍しくなくなったってのもある。しかしそれよりも<サイン>というものの価値が大幅に変わったことの方が大きい。
そもそも何で「ただの外国人」にサインを求めたがったか、それは「外国人と接触した<証拠>」のためです。
今ならば、もし「出来るだけ多くの外国人と接触した方が勝ちね」となっても<サイン>という証明は用いないと思う。ま、普通に写真でしょう。というか今の子供ならスマホを持ってるなんて珍しくないどころか当たり前レベルです。
しかし当時の子供はスマホを持ってないのはもちろんカメラさえ持ってない。
1970年というと「写ルンです」さえ発売されていない。いわゆる「バカチ○ンカメラ」(語源的には差別用語でもなんでもないけど念の為)さえまだ高価で子供には手が届かなかった。
つまり、まったく、気軽に写真を撮れる時代ではなかったのです。
しかしこれほど遠慮なく、いつでもどこでも写真を撮れる時代になれば、もし偶然街中で有名人を見かけたら、まずは「写真」だと思う。んで次善が「握手」ではないかと。
そもそもサインなんて、本当に本人が書いたかどうかはわからない。昔は球場に行くと<直筆>ではなく<印刷>されたサインボールが普通に売ってたし、さらに前になると「サインの代筆」、つまり当人ではない人間が商売のためにホンモノのサインを真似て描く、なんてことも常態化していた。
そんな不確かなものよりも<写真>のが圧倒的に「有名人に会った証拠」になる。そりゃあ、そっくりさんの可能性とか言い出したらキリがないけど、そうであってもサインよりは信憑性はあります。
しかもネットオークションなんかが当たり前になって、ホンモノかニセモノかわかんないサインが大量に出回るようになってね、実際サイン転売に頭を悩ませている有名人は多いみたいだけど、たとえば現DeNA監督の三浦大輔のように「価値がなくなるぐらい書きまくればいいじゃない」という姿勢の人もいます。
つまり「そもそもホンモノかニセモノがあやふや」「ホンモノだったとしても転売された可能性」「もしくは当人が書きまくった=出回りまくっている」わけで、どう転んでもサインには価値はないんです。少なくとも令和の時代には。
つかさ、アタシらの子供の頃はね、たぶん当時の子供は誰でもやったことがあると思うけど、もし自分が将来有名人になったと仮定して「サインを<作る>」ってのにみんな熱中していた。
でもこんなことも今はないんだろうな。別にそれが健全とも間違ってるとも思わないけど。