先日のことですが、ちょっと病院に行ってきましてね。「かかる」のはアタシでなかったのですが、ま、付き添いとして。というような話をしてみたいと思います。
何度も書いてますように、アタシは自分が「かかる」かどうかに関わらず、病院というものが好きじゃない。
いや正確に言えば、医者が嫌いとかというよりも「病院という施設にそこはかとない苦手意識がある」と言った方がいいか。
仮に待合室であっても、もうあの空気感が嫌だ。だから本当は待合室さえ行きたくないんです。病院の外で待ってる方が何百倍か気がラクだからね。
でもその日は、夜の10時くらいだったかな、つまり緊急も緊急だったんで、そんなことを言ってる余裕はない。診察室以外にはずっと付き添うみたいな感じでね。
で、ですね。何しろこのご時世ですから、診察前にコロナの検査を受けてくれってことになって、この検査場ってのがエラく離れた場所にあってね。
っても病院の敷地内ではあるんだけど、細い建物裏っつーか建物と建物の間の、溝を除いたら歩けるスペースは30センチもないようなところを延々歩かされた。
さすがに看護師も「いくらなんでもこの時間にこんなところを歩かせて怪我でもさせちゃあたまらない」と思ったんでしょうね。
で、帰りは「病院の中を通っていきましょう」となった。
もう、完全に裏口っつーか一般の人が入れない施設内を歩かされてね。
もちろん時間も時間なんで基本的に消灯している。非常灯だけが点いている、というか。だからかなり薄暗い。
でね、アタシは即座に映画の「ドグラ・マグラ」を思い出した。
もう今となったら桂枝雀の怪演と松田洋治の「毎度皆様お馴染み」の狂人演技しか憶えてないけど、それでも、あの病院のセットの薄気味悪さは忘れがたい。ま、あれは、病院は病院でも<特殊な病院>だけどさ。
そういやね、様々な理由があって本サイト用リメイクを諦めたんだけど、そういう<特殊な病院>に見舞いに行った話を書いたことがあります。
アタシはこの時の様子を藤子・F・不二雄の名作「モジャ公」の一編に例えて「この世のシャングリラだった」と書いていますが、あの景色は、ちょっと、忘れがたい。と同時に、あの時の感情を、アタシの筆力ではどうやっても書き写せないという無力感におそわれます。
やっぱね、病院という場所は、アタシの中にある「本質的な怖さにたいする妄想力」が全開になってしまう場所なんです。
つまりは、あまりにも感情が動かされすぎるというか、脳で理解出来ないまま感情だけが動かされすぎて上手く文章に出来ないというか。
というか何でさ、たかが付き添いで行っただけでそこまで感情が動かされるのか。
これは子供の頃の入院体験とか、その他諸々の「生きてきた経緯」がそうさせるんだろうけど、決定的な何かがひとつあるんじゃなくて、完全に蓄積された結果なんだろうなってのはわかる。わかるんですけど、それ以上がどうしてもわからない。
でもなぁ。
いやさ、最終的には、99%の人は病院という施設内で生命を終えるはずでね、たぶんアタシとて例外ではないとは思う。
そこがね、どうも、嫌だなと。いや死ぬのはしょうがないとしても「息を引き取るのが病院という施設」ってのは本当に嫌だわ。せめて死ぬ場所だけでも好きなところを選びたいってのはワガママすぎるんだろうな。