レトロは必ずしもレトロでなくてもいい
FirstUPDATE2021.11.5
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何のことかさっぱりなタイトルですが、要するに「レトロってこだわらなくていいところに目配せしすぎなんじゃないか」って話でして。

さて、ウチの近所に駄菓子屋さんがあります。
これがもう、正真正銘の駄菓子屋で、つまりショッピングモールに入ってる「駄菓子を売ってる店」ではなく、ちゃんと「小学校の近くにある、小学生がターゲットの、個人でやってる駄菓子屋」です。
昔は本当に当たり前のように、どこの小学校の近くにもこうした駄菓子屋があった。時代で言えば1970年代以前の話です。
ま、駄菓子屋と言えば、とくにこんな時代を知らないような人にとってはこんなイメージなんじゃないでしょうか。


ちなみにこれはモノホンの駄菓子屋じゃない。情景師アラーキー氏によるジオラマです。ま、まったく知らないわけじゃないので(何度か飲みに行ったことはあるので)、こうやって書くのは照れるんだけど。
しかし、アタシが子供の頃に行ってた駄菓子屋はこんなんじゃない。


どっちかっていうとこんな感じです。
駄菓子屋だってずっとアップトゥデイトしていってる。何しろターゲットは「レトロマニア」ではなく「そこら辺にいる普通の小学生」なんだから「無理して古臭い外観に留めておこう。今風にしてしまったら駄菓子屋じゃなくなる」なんて思うわけがないのです。
これは駄菓子屋に限らずなんだけど、古くからあるものを何でむやみにレトロ調にしたがるのだろう、と思う。例えばね、紙芝居なんかでも「iPadと電動スクーターを使った、レトロの欠片もない紙芝居」があってもいいのにさ。

何でアタシがレトロ<調>を嫌うかというと、全部中途半端なんですよ。
それこそ新横浜ラーメン博物館くらいの「こだわり」があればいいんだけど、あそこまでやろうと思えばカネもかかるし、いい感じに風化させるのも時間がかかる。
そうなんですよ。ちゃんとレトロをやろうとなったらカネがかかるんです。だから中途半端なところで妥協する。で、アマい仕上がりになって、マニアからはそっぽを向かれて普通の人からも「あんまり意味がないもの」になると。

それよりもアタシが渇望するのは「イマドキ風レトロショップ」です。
店の<つくり>はレトロ要素皆無の現代風で、でも置いてあるものはレトロ、みたいな。
そういや昔、ヴィレッジヴァンガードについて「品種ではなくカテゴリで分けているのは面白い」と書いたことがありますが、ああいう感じでね、年代別に分けてあった方がよりマニアックです。それこそ、1940年代、1950年代、1960年代、1970年代、みたいなふうに。
何をどう分けるかでその店のセンスが決まる。「虎の尾を踏む男達」のDVDが1950年代のコーナーではなく1940年代のコーナーに置いてあったら「お、この店はわかってる」と思うし、もうちょっとわかりやすいところで言えば「ドラえもん」0巻も1970年代ではなく1960年代に置くべきです。

結局ね、駄菓子屋に限らずこうしたレトロショップに求められるのは、どれだけ店主が「わかってる」かってことじゃないか。
店ってのは陳列の仕方で「わかってる」か「ただ並べているだけ」か判別出来る。それはレトロショップに限らずアキバや中野ブロードウェイによくあったレンタルボックスでもわかる。あ、こだわってるな、ってのが伝わってきたら、もうそれだけでリピ確定になるんだから。

そのこだわりポイントがレトロショップの場合は<年代別>だと思うだけでね。
間違っても店内ディスプレイじゃないですよ。いやむしろ、そんな小手先で惑わせようとしてる店なんて行きたくなくなるレベルだから。