故郷神戸の今2021
FirstUPDATE2021.5.1
@街 #神戸 #震災 単ページ 地盤沈下 三宮 新開地 大規模開発 ヨーロッパ的

 これまでいろいろ<自分語り>をしてきましたが、一番肝心なっつーか、アタシが形成された、つまりは幼少期をすごした神戸についてあまり書いてない。なのでもうちょっとやるべきだとね。

 神戸。兵庫県にある政令指定都市です。
 残念なことに現在の神戸は地盤沈下の真っ最中で、一切景気のいい話が聞こえてこないのですが(もちろんコロナの影響もあるとはいえ)、それでも何のかんの言いながらでも、東京23区を除いたランキングでは全国7位なんだから、やはり、それなりの大都市ってことになる。
 でもね、アタシは神戸の生まれで、んで流転があって今現在神戸に住んでるんだけど、正直、神戸にそこまでの思い入れはないんです。
 いやいや、嫌いってことじゃあ、ないんですよ。でもその愛着ってのが、上手く言えないけど、相当ヒネくれていると思うわけで。

 かつて神戸は「住みやすい街」と言われていました。都市部が三宮から元町の狭いエリアに凝縮されているし、住宅地も三宮元町間から東西に伸びているだけで、それもたいして広がりがあるわけじゃない。
 たしかに<坂>が多いのは大変だけど、何しろ三宮より東の区間は東西に3本、神戸駅より西は東西に2本も電車が走っている。
 山手から阪急、JR、阪神。山の方に住んでようが、海側に住んでようが、エッチラオッチラ坂道を登ったり降りたりしなくても、どれかの電車に乗れる。
 悪く言えば山と海の狭い隙間しか住めないから、住めそうなところが発展していき、その狭さが移動のラクさを生んでいた、と言えるはずです。

 しかし、その分、街の規模を広げようとなると大変で、それでも人口増加に耐えられなくなった神戸市は思い切った策に出た。
 何と山を崩して、タイラになったところに団地などを建て、その土砂で海を埋め立てる、という大規模造成に打って出たんです。
 今まで住めなかった山と海に住める場所を作れたんだから、単純計算で住宅地は2倍になったわけですが、何しろ大掛かりなのでお金がかかった。

 おそらくそのせいだと思うのですが、1980年代に入った頃から観光に力こぶを入れだしたのです。つまり、市民で負担するには限界があるからヨソから集める、という。
 その先鋒の役割を果たしたのは1981年に開催されたポートピア81です。万国博覧会にしたいという希望こそ叶わなかったものの、動員面では大成功を収めて、ここから「株式会社神戸市」と揶揄されるほどの快進撃が始まるのです。
 そう、1995年1月17日の朝までは。

 あの震災ですべての未来が変わってしまった。そう言い切れるくらい、神戸市は甚大な被害を受けました。
 それまで財政面で絶好調だった神戸ですから、何とか、自力で、つまり借金をせずに、震災から立ち直ることが出来たのですが、これが神戸の発展を妨げることになってしまった。
 もしカネがないのなら国からの援助で、となるし、実際、東日本大震災の時はとてもじゃないけど自力で立て直せるほど余裕のある地方自治体はなく、国からの援助で立ち直った。
 ところが神戸は下手に余裕があったせいで援助を受けなかった。でもあまりにも被害が甚大すぎてスッカラカンになってしまったのです。

 もはや街を大規模開発する余裕がなくなり、となると観光需要も見込めない。
 つまり、「観光地を作る→観光客を呼び込む→潤った資金でまた新しく観光地を作る」という良い意味での自転車操業が出来なくなったわけで。

 その昔、神戸はオシャレな街と言われていました。
 神戸生まれのアタシからすれば実際はたいしたことはないのですが「神戸の生まれ」なんて口にすると「オシャレな街で生まれたんですね」なんてお世辞を言われた。お世辞なのはわかってるけど、そんなお世辞が通用するくらいには、そういうイメージはあったんです。
 ところが現今、もはや神戸にオシャレな場所なんかない。あるのは「かつて、オシャレだった場所」、言い換えれば「古臭いオシャレさのまま発展が止まったダサい街」しかなくなった。

 こんな街に若者が定住するとはとても思えず、いや若者がいないわけじゃないけど、流行に敏感な若者を惹き付けるわけがない。
 だからか、街並みを歩いても、オシャレに疎そうな若者が多い。もっと言えば高年齢者の姿の方が圧倒的に目につく。
 これでは今後の発展なんか、見込めるわけがないと思うんです。

 ここまでエラく辛辣に書いてきましたが、もちろん愛情の裏返しの辛辣さです。
 正直、今後の神戸がどうなるか、またどうするべきなのか、そんなのアタシにわかるわけがない。ましてやこのコロナ下で、となるとあまりにも困難な問題が多すぎます。
 ただ確実なのは、なろうがなるまいが「何とかしなくちゃいけない」のです。

 地盤沈下したまま立て直せなかった街の悲哀は、三宮の前に神戸で一番の繁華街だった新開地の今を見ればよくわかる。
 新開地が神戸随一の繁華街、歓楽地だったのは大正時代まで、甘めにいっても昭和ヒト桁年までです。
 1936年(昭和11年)に阪急が三宮まで延伸したことが決定打となって、神戸の中心地は完全に三宮に移った。同時に「三宮から元町の商店街を西に移動する毎に寂れていく」という感じになった。

 それでも1950年代まではまだ、一位からは陥落したとはいえ「神戸第2の街」を保っていましたが、福原が近いこともあって風紀も乱れ、どんどん<怖い街>というイメージになった。
 この辺の経緯は年代を含めて東京の浅草、大阪の新世界とほぼ同じなのですが、浅草が何とか下町らしさを前面に押し出し、新世界がギンギラギンの大阪色の濃い観光地化に成功したのに比べて、現今の新開地は「もはや怖い場所でさえない、誰も歩いていない寂れきった街」になってしまった。
 しかし新開地を嗤うことは出来ない。このままだと「神戸全体が新開地化する」おそれがあるからです。

 それこそ大正時代までの神戸は「時代の最先端を走る街」でした。
 実際、神戸から花開いた文化は多い。映画(活動写真)も、ジャズも、もとを正せば、少なくとも我が国においては神戸発祥と言い切れるくらいで、洋食や中華料理が根付いたのも神戸からだった。
 ここが神戸の、というか神戸っ子の良いところであり致命的な弱点なんだけど、良くも悪くも「執着しない」んですよ。だから簡単に東京や大阪に取られる。結果、神戸は何にも残らず、でも残ってないことに、自分たち(正確には自分たちの祖先)が発祥だと憤慨したりもしない。

 神戸には結構面白い建築物があるのに、いつぞやの風見鶏ブームの頃の異人館の賑わいも一過性で終わらせてしまう。
 そうしたことがずっと続いてきて、ウチらが中心やなくなったんやな。それは別にええわ。ほんなら次や、という感じで、良く言えば「典型的な新しもの好き」、悪く言えば「文化を守って育てていこうという意識が希薄」と言える。
 何度も言うように、これは良いことでもあるんだけど、これから再び神戸が発展期に入るには、もうちょっと<継続>ということを意識した方がいいと思う。
 <新しもの好き>はそのままに、でもあと少しだけでも、これは神戸の文化やねんからキチンと育てていこうや、みたいなのが欲しい。

 神戸からまた新しいモノは生まれます。それは心配してない。でも今度こそ、もうちょい執着しようや。もう「○○って実は神戸発祥だったみたいやねん」「へぇ!そうなんだ!」みたいなことをなくしていかなきゃ。
 というか神戸の良さって実は<落ち着き>なんです。
 流行りをどんどん捨ててきた結果、いい塩梅に発酵して味のあるものが多い。それは神戸の強みです。
 そもそも神戸の街並みはあきらかにアメリカではなくヨーロッパ的で、ああいうね、今流行りの街ではないけど、老成した落ち着いた味わいをもっと報知してもいいんじゃないかね。
 執着と「執着のなさが故に生まれた」落ち着いた雰囲気の報知。これはこれからの神戸には必須のはずです。

 ここまで必死になって神戸の説明をしてきましたが、まだ書いてないことは山ほどあります。
 というかひとつの街を説明するにはこの程度の長さで書ききれるわけがないわけで、それはまた別エントリにってことで。

「愛憎半ば」という言葉がありますが、アタシにとって神戸とはまさしく「愛憎半ば」な街なわけで、何を言ってるのか理解されないかもしれないけど「嫌いになろうとしても嫌いになれない、好きになろうとしても好きになれない」街なんです。
 だからどうしても否定的なことを書いてしまいがちなのですが、それでも「神戸に在住していなければわからなかった感覚」は込めて書いた。それがないと本当にただの罵倒になるからね。




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