ま、何でもやりすぎはどうかと思うっつーか、あまりにもやりすぎ感が出てしまったものに引いてしまうのは、しょうがないと思うんだけど、それでも、やりすぎなければ、という前提で、やはりね、心のどこかでミニマリストってのに憧れる気持ちはあるんですよ。
テレビやなんかで紹介されるミニマリストはあきらかに「やりすぎ」で、ネットでの格好のターゲットになってしまう。もちろんこのご時世ですから、おそらく取り上げられている本人たちも「ああ、これはネットでネタにされるだろうな」ぐらいはわかって取材を受けてるんだろうけどさ。
あんな、ベッドはおろか布団さえ敷かない、カーテンもなければテーブルもないような部屋に住みたいとは、さすがに思わない。それでも、可能であるのなら、極力、モノが少ない、とくに趣味にかんすることはすべてデータ化され、さらに言うならそのデータもクラウド上にある、みたいなのが理想だな、と思うことはあります。
ただし、アタシはミニマリストには憧れはあるけど、断捨離という言葉は大嫌いです。
部屋が片付かない、それは断捨離をしないからだ、とかね、それは違うだろ、と。モノが多いことと部屋が片付かないはまったく別問題だもん。
よく「3年使わないものは一生使わない」なんて言いますが、これが市販品なら、まァ、処分してしまっても構わないと思うんですよ。
市販品である限り、仮にディスコンになったとしても、何らかの手段で手に入れることは可能です。もちろんカネはかかるかもしれないけど、可能か不可能かで言えば、やっぱり可能なわけで。
しかしこれが写真や個人で撮影したビデオなんかだとそうはいかない。
こんなもん、どこであろうが売ってないのは当然として、いくらネットで検索をかけたところで落ちてるわけがないんだから。
いやね、別に断捨離を標榜したわけじゃあないんだけど、一度、手持ちの写真やらのデータ整理があまりにも面倒くさくて、削除してしまったことがあります。
でもこれは本当に後悔している。何で削除しちゃったんだろ。何も消すことはなかったんじゃないか、と。
なんて書くと「思い出にすがる女々しい野郎」みたいに思われるかもしれません。
何と思われようが構わないんだけど、思い出とはちょっと違う。たんなる記録として残しておきたいのです。
アタシも古いことを調べるのが好きだから痛いほどわかっているのですが、自分にとっていらない=誰にとってもいらない、ということではないのです。
こんなもの、無価値だよね、と判断されて処分されたら、もう取り返しがつかない。二度と復活しない。この世から消える。
また、今の時点でこの記録は何の役にも立たないけど、3年後はおろか20年後、30年後はわからない。
だったら、一応全部残しておいて、アタシが死んだ後でテキトーにいるのだけを見繕って、後は処分しちゃってください、と。
ま、これが現物なら困るだろうけど、データだから。物質としてはゼロに近いんだし。
こんなことを書いちゃうと自分が死んだ時のことを考えてミニマリストを目指してるみたいだけど、そこは本当はどうでもいい。
そんなことよりね、これはアタシという人間の本質だと思うんだけど、何というか、バガウォンド体質なんですよ。
なんて書くと妙にカッコ良くなっちゃって困るのですが、ま、言い方を変えればアタシは典型的な<根無し草>なんです。だから、どうも、ひとつのところに収まることが出来ないっつーか、同じところに何年も住み続けると鬱屈してくる。
だから本当のことを言えば、部屋さえ持たないような生活が理想なんです。というか究極のミニマリストは「部屋なんか借りない」ことだと思う。となるとテレビなんかで紹介されている「やりすぎ」ミニマリストも、考えようによっては中途半端というか。だってみんな部屋は借りてるじゃん。それじゃあね、スナフキンにはなれないよ。
でもなぁ。ミニマリストに憧れるのは、たんにアタシが根無し草なだけじゃない気もする。
「やりすぎ」ミニマリスト部屋はともかく、適度なミニマリスト部屋って、カッコ良く思えるんですよね。
なるべくモノがない方が、たとえるならモデルルームくらいモノがないシンプルなインテリアの方がオシャレだ、と思っているフシがある。
でもこれもね、デザインセンスとも関係ないような。そうじゃないんだよなぁ。
とか考えていたら、ふと、カウチポテト、という言葉が浮かんだ。カウチポテト族でもいいけど。何しろ出来たのがバブル期なのでね、別に<族>でもなんでもないんだけど、竹の子族とか暴走族とかみたいな感じで「そういうことを好む」人の総称として<族>と付けたのでしょうね。
というかさ、わかります?カウチポテト。ま、いつものように説明するのがメンドいのでWikipediaからの引用を。
カウチポテト族(カウチポテトぞく)は、ソファー(カウチ)に座り込んだ(寝そべった)まま動かず、主にテレビを見てだらだらと長時間を過ごす人を、「ソファーの上に転がっているジャガイモ」にたとえて揶揄または自嘲した、アメリカの俗語的表現であるcouch potatoを日本語に訳した語、またはその日本における一つの解釈および、そこから発展した日本語の概念である。怠惰で運動不足の上にジャンクフードばかりを食べ、肥満など不健康な生活状態にある、という含意を持つ事が多い。
ま、こうして見ればわかるように、本来は罵倒語に近い。しかし日本に輸入されると意味が変化した。その辺も引用しておきます。
日本においては「ポテトチップを食べながらソファー(カウチ)に座り(寝転がり)、リモコンを片手にテレビやビデオを見る」すなわち「カウチ+ポテトチップ=カウチポテト(チップを省略)」という解釈と共に広まったため、現在でもこのように捉えている日本人が少なくない。
元来、かは知らんけど、アメリカであろうが日本であろうが「人間を<芋>にたとえる」ことにおいて肯定的な意味はないはずです。
カウチポテト族なる言葉が出来るちょっと前に「オシャレでない、垢抜けない、ダサい」をあらわす言葉として突然<イモ>が台頭してきた。形容詞化されて<イモい>とも使われた。
にもかかわらず、若干遅れて輸入されてきたカウチポテト族の<ポテト>は、日本語の<芋>ではなく<ポテト>だったせいか、何故か「ポテトチップス」に捻じ曲げられてしまったのです。
しかし、ポテト=芋野郎がポテトチップスに捻じ曲げられたとしても、それでも<惰性>や<堕落>を意味するニュアンスが当初は残っていました。
ところが、さらに意味が変化し、ネガティブな意味合いはどこかにすっ飛んでいき「モノに支配されずシンプルな暮らしをする人たち」ってな感じの、完全にポジティブな言葉として世間に浸透していきます。(こうした経緯はカウチポテト族よりさらに前の「プレッピー」にそっくりで、揶揄のニュアンスが消えて、推奨されるファッション、として輸入された)
具体的には、ガランとしたフローリングかリノリウム張りの部屋にソファー(カウチソファー)とテレビモニター(それも20インチ以上のもの)だけが鎮座しており、テレビは床に直置き。大抵はソニーのプロフィールシリーズでした。
そんな部屋でポテトチップスを頬張りながらレンタルビデオで映画を見る、なんてことを趣味にしてる人を指してカウチポテト族といってたわけです。
とにかく、雑誌なんかで紹介されたものがこういう感じだったのは事実ですが、こんなことを実際にやってた人がいたかどうかは知らない。
だってね、まァ自炊(飯作る本当の自炊)はしないとしても、本もなければCDもレコードもビデオテープもない。ビデオはレンタルだから、といわれても手持ちのビデオやレコードがまったくないってのは不自然極まりないわけでね。
鋭い方ならもうお気づきでしょう。少なくとも我が国においては、カウチポテト族とミニマリストの差異はごくわずかなのです。
もちろん時代が違うから、ミニマリストよりもカウチポテト族の方がモノは多い。カウチポテト族には必須の馬鹿デカいテレビがミニマリストには不要なものの筆頭です。
それでも<精神>はほぼ同じと言っていい。何もないことが美徳、というね。
そしてもうひとつ、こちらもお気づきの方はお気づきでしょうが、当時大学生だったアタシは、このカウチポテト族にものすごく憧れていたんです。だからテレビも床に直置きだったし(ただし14インチの小型の普通のテレビだったけど)、部屋を探すにしても畳の部屋は嫌、フローリングかリノリウム張り、と決めていた。
つまりはね、アタシはカウチポテト族(かはともかく憧れた人間)だったんです。だからこそ、その令和版とも言えるミニマリストにも興味を示さないわけがないと。
翻って、ではここで考えてみたい。
先ほど書いたように、カウチポテト族とミニマリストの差異はわずかなのですがゼロではない。で、このわずかな差は結構デカいっつーか、ほれ、微差は大差と言うでしょ。
ならば「ミニマリスト」ではなく、あくまで「令和のカウチポテト族」という発想をすればどうなるんだろ、と。
基本である「シンプルで生活感皆無」って共通点は守るとして、より具体的に「部屋に置いて良いモノ悪いモノ」を仕分けしてみます。
「ミニマリストの部屋にはなくてカウチポテト族の部屋にあるもの」を列記していって「令和のカウチポテト族」としてアリなら○、ダメならXをつけていく、と。
・観葉植物=X
・カーテン=○
・ソファー=○
・ベッド=△
・テレビ=X
・ビデオデッキ=X
・CDラジカセorオーディオコンポ=X
こんな感じでしょうか。
ベッドが△なのは、いくら寝づらかろうがカウチポテト族を目指すなら「ソファーベッド+毛布」が基本だと思うから。寝心地を考えて、なんてやってたらミニマリストはおろかカウチポテト族からも外れてしまいます。
そして、言うまでもないけど、先ほど挙げたテレビ、ビデオデッキ、CDラジカセorオーディオコンポはすべて「ノートPC」に集約されます。この辺の発想はミニマリストと同じで、しかもパソコンさえあれば仕事道具にもなるってのが強い。
ただねぇ、これだけではどうも、カウチポテト族って感じがしない。テレビはいらないけど「レンタルビデオで映画を見る」という<精神>は大事にしたい。
まァね、レンタルDVDだろ、とか、いや今はストリーミング配信だろ、とかはどうでもいいんです。そうじゃなくて、さすがに娯楽として映画を見るにはノートPCのモニタでは小さすぎる。音はヘッドフォンで良いとしても画面サイズがアレじゃあ、没入感に乏しい。
そこでHMD、ヘッドマウントディスプレイです。HMD、わかります?あの、頭にズボッと被る映像出力装着です。
ま、完全なHMDとなるとね、今はVRとかARとかMRの総称っぽくなってしまったけど、コレさえあれば映画だろうがゲームだろうが没入感マックスになれる。まだ発展途上とはいえ、もし完璧なHMDが発売されれば、究極の「令和版カウチポテト族」が完成します。
引っ越しったって、ま、さすがに冷蔵庫はともかくとして、デカいのはソファーベッドだけ。あとはカバンにすっぽり入るんだから手間もなにもあったもんじゃない。
実は一番の問題はポテトチップスかもしれない。何か最近のポテトチップスって妙に味が薄いというか、はっきりいえば味がないんだよね。減塩志向かなんか知らないけど、所詮はジャンクフードなんだからさ、上品にしたり健康に気を遣って味がなくなったりしたら意味ないと思うんだけどな。