カマタリの生きる道
FirstUPDATE2021.2.16
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 かつて藤原釜足、という名優がいました。
 とは書いたけど、Androidでは藤原<鎌>足は一発変換出来るけど藤原<釜>足は一発変換出来ない。
 藤原鎌足は日本史において欠かすことが出来ない歴史上の人物なので一発変換出来るのは当然かもしれませんが、その歴史上の人物の名前を捩った藤原釜足も十分一発変換出来るに値すると思うわけでして。

 カマさんこと藤原釜足と言って多くの人が連想するのは黒澤明監督作品でしょう。
 ほとんどは端役以上主役未満、つまり脇役としての出演ですが、唯一、千秋実とのコンビ扱いとして準主演格で出演したのが「隠し砦の三悪人」で、この漫才コンビともコントコンビとも言えそうなふたりの役回りは他作品へ大きな影響を与えた。
 とくに多大な影響を受けたジョージ・ルーカスは「スターウォーズ」で藤原釜足と千秋実のコンビをロボットに置き換えて登場させているくらいです。
 言うまでもなくR2-D2とC-3POなのですが、正直、どっちが藤原釜足でどっちが千秋実とは言い難いんだよね。というかあえてキャラクターをゴチャ混ぜにして、どっちがモデルなのかをわからなくしてある。
 ま、その辺は、ルーカスが上手く換骨奪胎してアダプデーションしたってことでよろしいのではないかと。

 つまり大半の人にとっては、藤原釜足とは「クロサワ映画に出てくる人」か「スターウォーズのロボットのモデル」でしかないと思う。
 しかしこの人の役者人生は掘り下げると面白い。そしてキチンと掘り下げていけば「隠し砦の三悪人」にて何故ああ見事なコント紛いのキャラクターを演じることが出来たかがあきらかになってきます。
 にもかかわらず、評伝はおろか自伝も出していない。こんな光と影が鮮やかなグラデーションの役者人生なんてそうそうないのに、何故か<名優>で評価が止まっている。
 どこが名優なのか、どういう経緯があったから名優に成り得たのか、そこをちゃんと書いてみようと。

 1900年代初頭、東京の下町で生を受けた彼は当時隆盛をきわめていた浅草オペラに憧れ浅草オペラのスター役者に弟子入りし、やがてコーラスボーイとして初舞台を踏むことになります。
 その後、カジノ・フォーリーというレビュウコメディの劇団に所属し、さらにプペ・ダンサントに移籍。そして当時新興の映画会社だったP.C.L.で主演映画を撮り始めることになるのです。
・・・とまぁ、ざっくりと、藤原釜足が名の知られた俳優になるまでの足跡を書いてみたのですが、実は上記のことがピタリと当てはまるのは藤原釜足だけではないのです。
 藤原釜足より2ヶ月ほど前に生を受けた榎本健一、通称エノケンは藤原釜足と驚くほど似た足跡をたどっている。
 そして経歴以外にも
低身長
ヴァイオリンを嗜んだ
オペラ出身だけあって歌える
パントマイム出身ではないが動きが達者
自然なペーソスがある
役柄は三枚目だが見た目は二枚目半
 こうして見ていけば「まるで血を分けた兄弟ではないか」とすら思えてしまうほどなのです。

 エノケンと言えば言わずと知れた喜劇王です。まァエノケンが実際「王」かどうかはさておき、コメディアン(喜劇役者)とかヴォードビリアンとか、その辺の仕分けはともかくとして、<コッケイ>かどうか<笑い>の人かどうかで言えば間違いなく<コッケイ><笑い>側に属する人です。
 しかしほぼ同じ経歴、同じ特性を持つ藤原釜足が<コッケイ>チームに入れられているのを見たことがない。先ほども書いたように、藤原釜足と言えば「シブい役者」です。
 何故藤原釜足は<コッケイ>チームではないのか、いや<コッケイ>扱いをされないのか、そこんところをエノケンとの比較で書くのが一番わかりやすいのです。

 エノケンと藤原釜足は旧知の仲でした。藤原釜足がカジノ・フォーリーに加入したのもエノケンの誘いだったと言われています。
 こうした経緯を見ても、エノケン側にほとんど藤原釜足をライバルと思っていたフシはない。たんに仲の良い友人として招き入れただけでしょうし、ライバルだと思っているなら易々と同じ劇団に誘い入れるような真似はしないはずですから。
 エノケンはおっちょこちょいで短気で酒癖が悪く、稽古はスパルタ式だったと言いますが、根はお人好しで、嫌われて当たり前の座長というポジションにいながらほとんどの座員から慕われていた。
 ただし「本当なら自分の方が(エノケンより)格上」だと思っていた二村定一とは言い争いが絶えず、しかも実力は勝っていると自負しながらもあっという間に人気で追い越されたせいか、二村定一はどんどん卑屈になっていきます。

 これがまだ楽屋で座長が嫌われているとかであれば慰めにもなるのでしょうが、みな「エノモト先生」の周りに寄っていく。これでは二村定一の立つ瀬がない。
 悲劇なのは二村定一はピンではどうも冴えなかった。やはりエノケンあってのベーやん(二村定一)であり、しかしベーやんあってのエノケンではない。エノケンはピンでも、つまり二村定一がいなくても十分すぎるくらい輝ける。
 結果、二村定一は何度も造反と復帰を繰り返し、極度のアルコール依存症になった後に早逝してしまいます。
 一番痛かったと思うのは、あまりにも「エノケンあってのベーやん」のイメージが付きすぎたことだと思う。エノケンとコンビを組む前にも「君恋し」や「アラビアの唄」などのヒットを飛ばしたレコード歌手でもあったのだから、二村定一がもうちょっと早くエノケンと袂を分かって己の道を進んでいたらぜんぜん別の人生があったように思うのです。

 二村定一がエノケンへのコンプレックスから歯車が狂ったのと対照的なのが藤原釜足でした。
 藤原釜足がエノケンと行動を共にしたのはプペ・ダンサントが最後で、その後エノケン主演映画に藤原釜足は脇役として出演していますが、たんに一俳優として出演しただけ、ともとれます。
 そもそも主演映画を撮り始めたのは藤原釜足の方が先で(昭和初期に神戸で撮影したと言われるエノケン主演のサイレント喜劇は、小品かつマイナーな撮影所での制作、ほぼ全国に流通してなかったと思われるので、あくまでメジャーどころの映画会社で、という注釈は付きますが)、喜劇映画俳優として先に人気を得たのも藤原釜足の方です。
 P.C.L.第一回作品「音楽喜劇ほろよひ人生」はクレジットの順列こそ3番手ですが実質主役を演じたのは藤原釜足で、「音楽喜劇制作会社」とも言える黎明期のP.C.L.の屋台骨を背負ったのは誰が何といおうと藤原釜足なのです。

 この時代の藤原釜足は紛れもない<コッケイ>の人であり、とくに藤原釜足の<コッケイ>ぶりがよくあらわれているのがP.C.L.第三回作品になった「只野凡児・人生勉強」です。
 前々作「音楽喜劇 ほろよひ人生」、前作「純情の都」に比べると、かなり喜劇寄り、というか音楽性やストーリー性はかなり弱めで、笑いに絞ってあります。となると当然ギャグも多い。
 ところがこれが、意外なほど笑える。「笑えないことが前提」の戦前喜劇映画でこれは稀有なことです。
 シナリオ自体がかなり笑えるように出来ているのがわかるのが凄いのですが、最大の功労は藤原釜足の喜劇的演技です。
 主人公の只野凡児は純情で恥ずかしがり屋、しかも要領の悪いという設定です。
 通常、このような受け身のタイプの主人公は笑いを生み出すのにはかなり不利なのですが、藤原釜足はあまりにも自然に、でもギャグはギャグとして演じているのがすごいんです。

 P.C.L.第4回作品「踊り子日記」、第5回作品「さくら音頭」にも藤原釜足は主演ではないものの出演しています。
 というかこの時期までのP.C.L.はあきらかに役者もスタッフも足らず、役者にかんしては主演者を順番で回しているだけで出演者はどの作品もほとんど変わらない、という小劇団みたいなものでした。
 しかしここで、とんでもない黒船がやってきます。
 P.C.L.第6回作品は「エノケン主演 青春酔虎伝」、つまり「浅草の音楽喜劇の王様」であったエノケンがP.C.L.と契約を交わしたのです。
 出演者も一部を除いてエノケン一座(ピエル・ブリヤント)の役者であり、先ほど書いたように藤原釜足は出演こそしているものの、小劇団的ムードだったのが一転して「部外者が混入している」というふうに見えるんです。

 何より「血を分けた兄弟ではないか」とまで言えるエノケンの登場で、藤原釜足の地位が一気に怪しくなった。
 経歴も年齢も特性も、何もかも似たエノケンと藤原釜足にはひとつだけ決定的な<違い>がありました。
 エノケンが<喜劇王>と言われるようになったのは、全盛期の面白さに加えて「絢爛たる<華>」があったからです。<華>があるから大作映画や大作舞台の主演を任せられる。仮に他の大スター(たとえば長谷川一夫、たとえば大河内傳次郎)と共演しても、同等レベルの強さで輝くことが出来る。
 その点、藤原釜足は、能力的なことで言えば何ひとつエノケンに見劣りするところはないのに、主演だと、どうも、弱い。それは<華>に欠けていたからです。いや、もっとはっきり言えば、地味なんですね。

 それはP.C.L.の幹部もわかっていたと思う。それでも、藤原釜足と言えば何しろ黎明期も黎明期からの功労者なのですから、主演作を続けてやりたい、という思いもあったのでしょう。
 以降、「続只野凡児」など数本以外、主演作は岸井明とのコンビ主演という形になった。
 このコンビ(じゃがたらコンビとして売り出していたらしい)の作品の中で、もっとも成功したのは「唄の世の中」でしょう。
 しかし、劇中で輝いていたのはむしろ岸井明の方でラスト間際に歌う「アレキサンダーズラグタイムバンド」(の岸井明版の訳題が「唄の世の中」)の素晴らしさったらない。
 岸井明は、それこそエノケンのような華がある人ではありませんが、それでも藤原釜足と比べれば、まだ目立ってしまう。
 つまり、それほどまで、藤原釜足は地味だったんです。

 じゃがたらコンビは意外と続き、同時に単独主演作も作られていましたが、その数は年々減少していた。主演作も喜劇ではない作品(「旅役者」など)もあり、1940年頃になると「喜劇役者なのか、それとも普通の役者なのか」という微妙なラインにいたことがうかがえます。
 そして翌年の「馬」での脇役としての好演を認められたあたりから、完全に「普通の役者」=ワキを固めるタイプの役者にシフトチェンジした。
 もちろん一切、喜劇的演技をしなくなったのかというとそうじゃない。
 戦後になってからも、冒頭で書いた通り「隠し砦の三悪人」もだし、「サザエさん」シリーズにおけるお父さん役(=波平なのだが、映画シリーズ開始当時はまだ原作でも名前が定められていなかった)なんか藤原釜足の喜劇的演技がなければ成立しない役柄です。
 それでも、ワキ、というのは一貫していた。主演のオファーがなかったのかもしれないけど、当人もとっくに主演へのこだわりを消し去っていたとおぼしい。

 それでも、もしエノケンの存在がなければ、ああまで見事に「ワキ役者への転身」と「喜劇役者ではなく普通の役者への転身」ははかれなかったのではないか、と思ってしまうのです。
 正直、エノケンがいようがいまいが、最終的には藤原釜足には主演を続けるのは無理だったと思う。どれだけ達者でも地味すぎる。だからどのみちワキへの転身は必然だったとは思うけど、喜劇役者ではなく、せいぜい喜劇<的>役者に己を置いたのは、間違いなくエノケンの存在があったからです。
 <コッケイ>の看板を降ろすことで、つまりエノケンとはまったく違う道を行くことで、あまりにも似通ったエノケンとの差別化に成功した。

 晩年の人生で比べるならば、不幸がこれでもかと押し寄せ、失意のうちに亡くなったエノケンよりも、最後までシブい、そして手堅いワキとして活躍した藤原釜足の方が恵まれていた、と言っていい。
 オペラから入り、喜劇役者になって、そして喜劇<的>演技も出来る役者になった。ライバルであり同士でもあったエノケンが亡くなった最晩年には海外にまで演技が絶賛されることになった。
 その人生は<只野凡児>どころか<流転>、いや<激流>と言っても差し支えないと思う。

 そんなもんだよ、人生なんて。・・・ともし、晩年の藤原釜足が語りかけてくれたら、こんな説得力のある言葉もないと思うのですがね。

このタイトルで本当に良かったんだろうか。やっぱ、「かたまり(塊)」に見えちゃうよね。
本当はピッタリのタイトルがあったんだけど、それはだいぶ前に廃止した仕事用ブログで使ってしまったのよ。何となく<バレ>が怖かったので変えたんだけど、やっぱりあのタイトルのが良かったかな。




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