決定版!ヤブニラミ文体のすべて
FirstUPDATE2020.10.13
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今回、本気でいろいろ文体について考えてみた結果、やっと答えらしきものが見つかったのでね、ああ、だからアタシはこういう感じの文体で長年駄文を書いてきたんだってのに気づいたっつーか。

何から片付けたらいいのかわかりませんが、とりあえず一人称の話から始めます。
2003年、アタシは待望のマイサイトを始めるにあたって、まず悩んだのが「一人称をどうするか」でした。
<オレ>ではエラソーだし<ぼく>ではいい子ちゃんすぎる。かと言って<妾は>とか<余は>、はたまた<小生>じゃあ狙いすぎでイタい。<オイラ>だとビートたけしとかひろゆきになっちゃうし。
そんなわけで、サイト開始直後は「ちょっと硬いなぁ」と思いながらも、もっとも無難な<私>を使っていたのです。

ただどうも、文字で書くとオカマっぽいニュアンスが出てしまう。それこそ金本知憲の監督時代の発言「○○だわね」と一緒でね、<音>で聴いてたら別にオカマっぽさなんか皆無なのに、文字にすると女性言葉っぽくなってしまうんです。
そこで<アタシ>ってのが急浮上してきた。
たしかに<アタシ>も、どちらかというと女性的な一人称なのですが、江戸落語の噺家さんなんかは一人称として<アタシ>を使ったりするし、つかちょっと東京っぽい感じになるんですよ。
ああ、これは、アリかもしれないな、と思い、サイトを立ち上げてひと月近く経った頃に<アタシ>に変更しています。

ここでちょっと話がズレます。
自分の書いた文章について、ちょっとへりくだる場合<駄文>とか<拙文>なんて言ったりしますが、ま、アタシもそのように書いてきたんだけど、本心は違うんです。
と言っても「名文」と思ってるってことじゃなくて、何というか、これは文章というよりも「独り言の文字起こし」だなぁと。
だから駄文や拙文というよりは<駄弁>や<拙弁>といった方がしっくりくるんです。

そもそもアタシはものすごく独り言が多い。部屋でひとりでいる時とかずっとブツクサ独り言を言ってるレベルでして、ブツクサなんて書くと文句ばっかりってイメージになっちゃうけど、くだらないことだったり、鼻唄だったりね、とにかくすべての感情を口にしないと気持ち悪いんです。
むしろ文句とか罵声、あと愚痴のようなね、いわゆるネガティブ方面の独り言はほとんどない。野球を見てる時でさえ、んで我が贔屓である阪神の監督の采配を疑問に思った時でさえ、せいぜい「それは止めた方がいいんじゃないかなぁ・・・」レベルのことしか言わないんです。
その代わり、屁理屈みたいなことは良く考えているので、あれは、つまり、こうじゃないかな、みたいなね、ひとり合点の独り言は、それこそ小学生の時からやっていたのです。

今までアタシは「yabuniramiJAPANを始めるにあたって、泉麻人のコラムや色川武大のエッセイを念頭に置いていた」と書いてきました。
もちろんこれは嘘じゃない。ただね、それはもう、文章として完成させる最終段階での話で、もし、自分がウェブ上に何か書くのなら、もう「独り言の文字起こし」しかないと思っていたんです。
一応、不特定多数の人に読んでもらうことになるんだから、横柄ではない「言葉遣い」をしなければ、というのがあったし、だからといって妙にバカ丁寧っつーかへりくだるみたいになるのもダメだと思ったんで、半丁寧語、とでも言えばいいのか、とにかく基本は「ですます調」なんだけど、全部のセンテンツがそうではなく、話が佳境に入ったりしたら「ですます」を後退させる、というふうにした。

いやこれは、イメージとしては完全に落語なのです。
噺だってマクラやト書きのような<地>の箇所は半丁寧語で喋るし、つかマクラを付けたがるのも落語の発想。サゲ、とまではいかないにしろ、最後に段落を変えて短くまとめるのも落語の構成に近い。
「独り言の文字起こし」というスタイルを突き詰めるほどに「落語の文字起こし」に接近していった。もちろん独り言と落語はまったく違うんだけど、結局「ひとりで話を語り始め、ひとりで話を進め、ひとりで話を語り終わる」究極の形が落語だったってことです。

だったら一人称も、落語っぽい、というか噺家っぽい<アタシ>が最適なのではないか、と。
余談だけど、このスタイルをさらに落語に近づけたのが一人二役で独り言を言う「さかい親子の大阪噺」です。

yabuniramiJAPAN(現・やぶにら)を始めてもう20年近いけど、あれって落語の影響が濃厚ですよね、と看破されたことは一度もない。
別に落語(噺家を含む)そのものの話はほとんど書いてないし、普段は戦前モダニズムがドータラとかが多いので、いわば時代劇の世界とも言える落語とアタシが結びつかないんでしょう。
それでも鋭い人から、アンタが書いてるアレはコラムでも分析サイトでもない。というかアレは<文章>ではなく<独り喋り>だ、という指摘ならされたことはあります。

まったくその通りでして、ま、独り言って言うから逆にややこしいんだけど、もっとわかりやすく言うなら、インターネットという媒体を 使った、んで本当に喋るわけではなく文字起こしした一種の「スタンダップコミック」なんです。
ま、スタンダップコミックって言い切っちゃうと「笑わせるのに特化した」っぽくなってしまうんでアレだけど、随所にジョークめいたことを挟み込みたがるのは、落語にしろスタンダップコミックにしろ「笑いの芸能」がベースになってるからなんです。

ここまで書けば、アタシが「改行がやたらに多い」もしくは「一行飛ばし」が嫌いなのを、察してもらえるかもしれません。
かなりそもそもの話ですが、「改行がやたらに多い」「一行飛ばし」の方が「ことウェブ上(というかブラウザ上)では読みやすい」という説は嘘だと思っています。
これね、アタシは「RG現象」と読んでいる。って何のことだかわからないと思いますが、この手の改行多用文体って、結果的に「意味もなく引っ張ってる」ことになると思うんです。

これがね、スマホであれPCであれ、1画面で全文が見渡せる程度の長さであれば、まァ、改行多用でもかまわないと思う。
だけれども、それ以上の長さの場合、スクロールさせなきゃいけないわけです。つまり全部が見えない状態で読み進めなければいけない。
無駄にスクロールさせると、無駄に期待値を上げてしまう。
これはつまりRG風に言えば


あるある

いいたい

あるあるが

いいたい

yabuniramiJAPANのあるあるを

いいたいよ~

yabuniramiJAPANのあるあるは

たとえば

いろいろあるけど

それがいいたいんだよ~

じゃあいうよ

yabuniramiJAPANの~

あるあるを~

これからいうよ~

yabuniramiJAPANのあるある

「たとえ話がたとえになってない」

まァね、RGがあるあるネタをやる時は必ずガヤから「早よ言えや!」ってツッコミが入るし、今では「なかなか言わない」ってのが浸透してきてるので本気でイラつく人はいないはずです。
それでもやっぱり、ツッコミなしのあるあるネタは難しすぎるんですよ。
この、無駄に引っ張った感をウェブ上で再現すると、つまりは「改行多用」になるのではないかと。

もう一度言います。yabuniramiJAPANのベースは独り言です。
んで、それを文章として起こすために「もっとも練り上げられてきた独り喋り」である落語をベースに文体を組み上げた。
落語がベースであるからには何より重要なのは「間」です。「間」はリズムと言い換えてもかまいませんが、つまり、極端に言えば内容よりも「間=リズム」が出来不出来を支配すると言ってもいい。

改行多用は良く言えば「リズムが等間隔」、悪く言えば「リズムのコントロールがほぼ無理」ってことに他ならない。しかもウェブ上の場合は引っ張っれば引っ張るほどスクロールを強要することになるし、スクロールさせればさせるほど無意味な期待値を上げてしまう。
さっきの例として書いた「あるあるネタ」もね、ほとんどの人には散々引っ張っておいて、何だそのオチは、としかならないと思うんです。

フィクションであろうが実録(って書いちゃうと任侠モノみたいだけど、ノンフィクションというかドキュメンタリーというか「事実を元に」書かれたもの)であろうが、文章というものは「語り始められた時点で、語り終わることが前提」なのです。当然読者は「文末には語り終えられている」ことを前提に読み進める。
別にたいしたオチじゃなくてもいいんです。とにかく筆者に「語り終えようという意思」がある、と感じることが出来れば読者は満足な読後感を得られる。

ところが改行多用文体は「語り終えようという意思」が極端に見えづらい。となると改行多用に本当に向くのは書籍だろうがウェブ上であろうがマジでポエムくらいなんです。
さっき、どんな文章でも語り終えることが前提と書いたけど、ポエムは例外で、徹底的にムード重視、筆者がどこで書き終わっても、読者がどこで読み終わっても成立する。
アタシ的に言えば「日記に近いようなものをポエムふうの文体にする」なんて自殺行為なんですよ。

もうひとつ、改行が少ないとウェブ上(つまりブラウザ上)では文章が「ひとかたまり」に見えて読みづらい、という意見もあきらかにおかしい。
じゃあ、書籍など紙に印刷された文章なら「ひとかたまり」に見えないのか、というと、正直そんなに変わるとは思えないんです。
この話、今から15年くらい前ならまだ理解出来た。
アタシがyabuniramiJAPANを始めた2003年当時、まだスマホなんてもんはなかった。いやあるにはあったしアタシはPDAなんていうスマホの前身と言えるモバイル機器を使ってウェブサイトを見てたけど、これは特殊すぎるケースだと思う。
となるとインターネットでウェブサイトを<ちゃんと>見るとなれば、パソコンしかなかったんです。

その頃のパソコンというかパソコン用ディスプレイはいわば過渡期で、ちょうど液晶モニタとブラウン管モニタの入れ替え時期くらいだったと思う。
宇多田ヒカルの「Automatic」じゃないけど、ブラウン管というのはその方式上、どうしてもチラつき(フリッカー)を抑えられない。だからある程度改行を多用しないと文字が二重に見えやすかったんです。

ところが今は、というと、ブラウン管モニタを使ってる人なんかまずいないんだから、そこを考慮する必要はない。ほとんどの人は液晶か有機ELのどちらかです。
液晶や有機ELのディスプレイはブラウン管と違ってチラつきは発生しづらい。電子ペーパーほどではないけど、バックライトの有無以外で「紙」との違いというと、実はほとんどないんです。

では何故、現今においても改行多用文体がデファクトスタンダードとして君臨しているか、アタシは「ただの慣例にすぎない」と思っています。
読者側の閲覧環境は時代によって変化していくものです。というか今現在、完全無欠の表示デバイスは存在しない。液晶も有機ELも電子ペーパーもすべて一長一短があり、失われたテクノロジーとなりつつあるブラウン管でさえ、液晶などと比べて応答速度が速い、という長所が残ったままです。

完全無欠でない以上、そしてこれからも不可欠なものである以上、表示デバイスはまだまだ発展すると思う。
表示デバイスの最終到達地点のひとつに「応答速度の速い、ほぼ<紙>」ってのが必ずあるはずで、となるとこれからは「ウェブ上で読ませるから」とか「紙媒体で読ませるから」を峻別する理由がどんどん希薄になるはずです。

もしそれでも、いや、やっぱり、改行多用の方が読みやすい、とのたまう御仁がいるとするなら、それはもう、紙だからとか表示デバイスがどうとか関係なく、文章を読むのが苦手なだけです。
以前、自己啓発本は文章を読むのが苦手で、かつ文章を読むのが苦手ということにコンプレックスをもつ層をターゲットにしたものだ、と書いたことがあります。
自己啓発本は紙媒体であっても、ポエムほどではないにしろ改行が多いし、段落を多用して「パッと見、文字の塊に見えない」工夫をしていますから。

アタシはね、文章を読むのが苦手という人にたいして馬鹿にする気持ちは一切ない。ただ自分が苦手というのを差し置いて、改行が少ない文章=ダメな文章、と烙印を押そうとするのは滑稽でしかないと思っている。
というか、正直、文章を読むのが苦手な人をターゲットにしてたら書けることが限られてしまう。だったらもう、そんな人には読んでもらわなくて結構です。
それよりも、文章を読むのが得意、までいかなくていいから、普通に読める人たち以上に向けて書いた方が精神衛生上良い。

こう言ってはナンだけど、これは自分の書いた文章を読み返して本気で思ってることですが、面白い面白くないはともかく、長さのわりにはものすごく読みやすく書いてあると思っています。
もちろん不親切だってことは自覚している。肝心な箇所の説明をすっ飛ばしたりは日常茶飯事だし、知識の開陳の度が過ぎるところも多々見受けられる。それは否定しない。
それでも、最初の方に書いたように、アタシの意識として「文章を記している」というよりも「独り言を文字起こししている」感覚なわけで、多少専門用語を散りばめたところで難解になり辛いはずです。

正直に言えば「独り言の文字起こし」というのはアタシ独自の、画期的な発想だと思っていたんです。ところがそうではなかった。偶然にも戦前モダニズム文化に淫することで、それがあきらかになった。
徳川夢声の数ある著作や、サトウハチローの「僕の東京地図」は完全なまでの「独り言の文字起こし」であり、実際これらの書籍は「読む」というよりも「トークを聴いている感覚」に酷似しているんです。
そう考えれば、アタシが「独り言の文字起こし」にたどり着いたのは必然、もしくは運命だったと思う。
ま、オリジナルではなかったとはいえ戦前モダニズムが色濃く反映されたこの文体こそ、本当に望むものだったと。

これからもアタシは今までのノウハウを結集して「本当の意味で読みやすい」文章を書いていきたいと、ここに宣言します。
だけれども、それは「文章を読むのが苦手な人でも読める」ってことじゃないから。そういうのは自己啓発本でやってください。

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はい、令和からって元エントリも令和なんだけど、とにかく2023年4月の時点でどうしても追記したいことが出てきまして、単独エントリにしてもいいんだけど、もうここに追記という形で書いてしまいます。

アタシが何で改行多用の文章に違和感があるのか、つらつら考えてみたら、ひとつ思いついた。
てなわけで、まずはこれを読んでいただきたい。

父上様母上様 三日とろろ美味しうございました。干し柿 もちも美味しうございました。
敏雄兄姉上様 おすし美味しうございました。
勝美兄姉上様 ブドウ酒 リンゴ美味しうございました。
巌兄姉上様 しそめし 南ばんづけ美味しうございました。
喜久造兄姉上様 ブドウ液 養命酒美味しうございました。又いつも洗濯ありがとうございました。
幸造兄姉上様 往復車に便乗さして戴き有難とうございました。モンゴいか美味しうございました。
正男兄姉上様お気を煩わして大変申し訳ありませんでした。
幸雄君、秀雄君、幹雄君、敏子ちゃん、ひで子ちゃん、
良介君、敬久君、みよ子ちゃん、ゆき江ちゃん、
光江ちゃん、彰君、芳幸君、恵子ちゃん、
幸栄君、裕ちゃん、キーちゃん、正嗣君、
立派な人になってください。
父上様母上様 幸吉は、もうすっかり疲れ切ってしまって走れません。
何卒 お許し下さい。
気が休まる事なく御苦労、御心配をお掛け致し申し訳ありません。
幸吉は父母上様の側で暮しとうございました。


これは1964年の東京オリンピックのマラソン競技で銅メダルを獲得し、メキシコオリンピックの直前に自殺した円谷幸吉の家族に宛てた遺書です。
おそらくこの一文を初めて読んだのは中学生くらいの時で、何というか、とてつもない衝撃を受けた。
よく言われるように、プロの文筆家ではないからそこの、しかも死を決意した人間にしか書けない独特の迫力があり、とにかく、ひたすら食べ物のことを書く、というのは創作された遺書ではあり得ない。にもかかわらず<だからこそ>と言える説得力もあります。

もちろんネット上の文章によくある、いわゆる一行飛ばしではない。しかし改行を多用したことで、筆者の「噛み締めながら書いた」というのが痛いほど伝わってくるのです。
実はまったく意識してなかったんだけど、アタシが改行多用の文章に違和感、いや違和感というより何とも言えない恐怖感を感じるのは、円谷幸吉の遺書の残像があったからなのかも、と思うわけです。

こうした恐怖感はかなり潜在的なもので、もう変えることは出来ないと思う。かといって「みんな止めてくれ」とは思わないけど、やっぱ、自分もこういう改行多用の文章を書こうとは思わないよねって話で。

一人称の話から改行の量まで話が及んでいますが、改行の量って絶対的正解なんてあるはずがないのに、何で絶対的正解があるってことになってるんだろ。
意固地になってるとかそんなんじゃなくて、改行が多ければ多いほど読みやすい、なんていくら公平に考えても眉唾だとしか思えないんですよねぇ。




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