意表なんかついてもしょうがない
FirstUPDATE2020.8.8
@Scribble #Scribble2020 #フィクション 単ページ 意表 若い頃

あ、これ、もしかしたら若い時、いや年齢的にどうこうではなく社会的経験の浅い頃特有の価値観なのかな、と思うのが、ものすごく「意表をつく」というのを重要視することです。

アタシは何度も王道の重要性や頑健さについて書いてきたけど、最終的に生き残るのは長年練り込まれた王道、もしくは「新しく作られた王道」だと思っているし、それは未来永劫変わることはないと思っています。
では王道からはみ出た「意表をつく」に価値がないのかというとそんなことはない。
ただし活用の範囲はかなり限られているとも思っているわけで、どれだけ意表をついても構わない、意表をつけばつくほど良いなんて落語のサゲくらいでしょう。
もちろんそれ以外にも活用の方法はあるとはいえ、落語のサゲほど何でもアリじゃない。というか本当に意表をついても問題ないのは「これで終わりなんだからどれだけ客(読者、視聴者)が退いても関係ない」最後の最後しか無理だと思うんです。

ところが若い頃は「意表をついた始まり」や「意表をついた展開」を過大評価しやすい。それで構成が取れてるなら問題ないけど、大抵は破綻してしまう。
黒澤明の「生きる」でいきなり通夜になるところもね、たしかに意表はつかれるんだけど、あれは有名ではないだけの王道なんですよ。だから構成が崩れない。
それをただ「ビックリさせたいから」みたいな発想で意表をついてもマスターベーションにしかならないんです。

飛び道具は「ここ一番」で使われるから有用なのであって、無限に飛び道具を繰り出すエンターテイメントなんか面白いわけがない。
つか意表をつく=飛び道具なんだから、飛び道具に頼るなんてマトモになるわけがないと思ってみたり。







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