1935年12月10日、阪神電気鉄道は職業野球チーム「株式会社大阪野球倶楽部」(資本金20万円)の創立総会を開催した。そして後日、ニックネームを「タイガース」と決定したのですが、これが今も続く阪神タイガースなのは言うまでもありません。
しかし球団の結成にはかなりの道程があり、紆余曲折の末に「タイガース」というチームが生まれたのです。
「阪神タイガースの正体」において、著者の井上章一は「讀賣新聞の熱烈な誘いに応える形で球団が結成された」というニュアンスで表現していますが、コトはもう少し複雑でした。
前年に結成された巨人軍は<現存する中で>プロ野球最古の球団ですが、たった1チームでは試合が出来ない。だから創設期の巨人はノンプロチームと対戦したり、外地へ遠征に行きそこで対戦相手を募っていたのです。
そんなことを続けていても職業野球が発展するはずもなく、もっとはっきり言えば商売としての先行きが明るいわけがなく、讀賣は他企業に「職業野球チームを作らないか」と声をかけ始めた。
まず狙いを定めたのは阪神電鉄でした。
東京に対抗する形で、是非とも関西にも職業野球チームが欲しい。となると自前の大球場(甲子園球場)を有する阪神電鉄に、と考えるのは自然です。
しかも阪神電鉄は夏の高校野球大会で朝日新聞と、春のセンバツで毎日新聞と組んでいたので、新聞社と合同でイベントを行うノウハウはあったわけで、讀賣としても誘いやすい条件を兼ね備えていました。(ただし当時は讀賣新聞の大阪版は発行されていない)
こうした讀賣の誘いに応えてタイガースが結成された、というのが定説なのですが、タイガース黎明期の立役者だった松木謙治郎が記した「大阪タイガース史」を読めば、さらに入り組んだ経緯が見えてきます。
巨人軍の結成に刺激されて、大阪にも、という心理的経緯は同じなのですが、最初にこうした構想を立てたのは、当時、関大野球倶楽部の理事長だった田中義一であり、1935年の春に阪神電鉄に話を持っていった、というのが真相のようです。
つまりこの時点では阪神電鉄が母体となって、というよりはスポンサーに近いものを田中は構想していたと。
阪神電鉄が乗り気になったのは讀賣からの誘いがあったからなのは間違いない。しかし田中義一の構想がなければあれだけ迅速な結成は難しかったと思うのです。
阪神電鉄として職業野球を所有することが最初は念頭に置かれていなかった証拠もある。
当時、阪神電鉄はノンプロチームを所有していた。ここに、のちに阪神タイガースの球団社長になる小津正次郎も在席していました。
しかし阪神電鉄はこのノンプロチームを職業野球チームに昇格させることはせずに、選手を一から集めている。もし阪神電鉄として職業野球チームを所有することが最初から構想にあれば、補強はするにしろノンプロチームを骨格にチーム作りをするのが常套のはずですからね。
「阪神タイガースの正体」には1935年10月17日に甲子園球場で行われた「巨人軍VS全大阪」の試合がそこそこ盛況だったことで、職業野球チーム結成を阪神電鉄が決意した、とあります。
ちなみに、この全大阪はあくまで一時的に作られた<仮ごしらえ>のチームでしかありません。
ところが「大阪タイガース史」によると、もう少し早い時期に阪神電鉄として球団を持とう、という意思を示していた、というのです。
田中義一が春に阪神電鉄に話を持ちかけた時点では、まだ阪神電鉄は乗り気ではなかった。ところが9月末になって(おそらくこの間に讀賣からの勧誘があったと思われる)、田中に阪神電鉄から「球団を持つ」との連絡が入っています。
そして10月10日付の讀賣新聞紙上で「阪神電鉄が職業野球チームを結成することが決定した」と報じた。つまり「巨人軍VS全大阪」の一週間も前の時点で阪神電鉄ははっきりした意思を示していたのです。
実際に阪神電鉄として正式に決済を下したのは12月6日だったらしい。
ただし選手集めは10月から始められており、もしかすると「巨人軍VS全大阪」はタイガースの選手を集めるためのデモンストレーションではなかったか、という想像が成り立ちます。
当然ですがこの当時は職業野球チーム同士の対戦はない。そもそも職業野球とは何なんだということが選手には捉えづらかったと思う。
さらに「阪神タイガースの正体」でも記されているように、野球を生業にすることへの蔑視もあった。
そんな状況では選手を集めるのもひと苦労で、全日本軍を母体とした巨人軍はともかく、その後結成された球団はどこも選手集めに四苦八苦しています。
そこで阪神電鉄は(おそらく讀賣にも相談した上で)一計を案じた。我が軍に入団して欲しい、ということではなく、巨人軍と対戦するためのチームを一時的に結成するので手伝ってくれないか、と関西に在住する高校野球や大学野球のOBに声をかけた。そこで「職業野球に入れば甲子園球場のような大球場で試合が出来る」というのをわからせたかったのではないかと。
幸いにもタイガースはそれなりの有力選手を獲得することが出来た。
たしかに職業野球への蔑視はあったとはいえ、この時点で巨人軍に属していないすべての選手を獲得する権利があった。何しろ1935年10月の時点では他の職業野球チームはなかったんだから。
もちろん、当時の感覚で言えば「職業野球に身を落とす」という風潮があったので、多少は訳ありの選手たちでしたが、それでも景浦将や藤村富美男、若林忠志、そして松木謙治郎のような有力選手の獲得に成功したのです。
中でも、タイガース最初のスター選手と言えば景浦将でしょう。
何しろ「沢村(栄治)が投げ、景浦が打ち、プロ野球が始まった」と言われるほどの存在で、文句なしの金看板選手だったんです。
松木謙治郎によれば「どれほどの能力があったのか計り知れない」と思わせるほどだったらしい。
とくにすごいのが、現在よりはるかに広い甲子園球場で景浦将は公式戦で、4本ものスタンドインのホームランを放っていることです。
具体的にはセンターが120mというのは普通ですが、両翼が110m、左右中間は何と128mだったんだからハンパではない。あのベーブ・ルースをして「この球場でスタンドインは無理だ」と嘆いたと言われるほどの球場で、しかもボールの質もすこぶる悪いという悪条件で、ですからその驚異的なパワーは推して知るべし、です。
残念ながら景浦将は沢村栄治と同じく、戦禍で帰らぬ人となりましたが、松木謙治郎は戦後にタイガースの監督をつとめるようになってから、よく景浦将の夢を見たといいます。
私は(中略)タイガースの監督に復帰したが(中略)その建て直しに苦労した。(中略)この当時景浦が帰還して試合に出場する夢をたびたび見たことがある。(中略)景浦さえいてくれたらという日頃の願いが、この夢になったのかもしれない。(松木謙治郎著「大阪タイガース史」より)
『建て直しに苦労した』とありますが、これは2リーグ分裂の余波で阪神の戦力が骨抜きにされたからで(この経緯を書いていくと長大になるので割愛)、松木は私財をなげうってまでタイガースの再建に尽力します。
残念ながら監督就任期間の5年の間に優勝こそ出来ませんでしたが、それでも古豪の名に恥じぬ順位をキープ出来たのは松木の貢献があってこそです。
松木は一人の監督にすぎなかったが、その存在価値は大きかった。阪神で生き、猛虎の血を継いできた人である。(五百崎三郎編「GUTSタイガース」より)
松木は監督退任後は阪神に直接関わることは一切なかった。東映フライヤーズ(現在の北海道日本ハムファイターズ)で打撃コーチや監督を歴任していますが、タイガースで首脳陣入りはしていない。
その後はTBSの解説者となり、アタシも幼少期に松木が解説をつとめた試合をテレビで観戦した記憶があります。
某YouTubeに1976年4月18日に石川県立野球場で行われた「大洋(現在の横浜DeNAベイスターズ)VS阪神戦」のラジオ中継がアップされており、この試合で解説を担当していたのが松木です。
音源を聴いていただければわかりますが、阪神のチーム状態をよく把握しており、言葉の端々に愛情が溢れている。
そもそも「大阪タイガース史」という著作があることからしても並々ならぬ愛情があったことは間違いなく、これは1973年に発行された自身の著書「タイガースの生いたち」をベースに加筆を続けたもので、松木が逝去する前年の1985年まで(くしくも現時点で最初で最後の日本シリーズを制した年)まで加筆を続けています。
これほどまでタイガースを愛した松木を、何故阪神球団は呼び戻さなかったのか、アタシはここに1970年代以降に戦力的にも低迷した原因があると睨んでいるんです。
そして、そのターニングポイントとなったのは1968年オフと1969年オフにあるのではないかと。
1968年と言えばアタシが生まれた年ですが、この年まで監督をつとめていたのは藤本定義で、1962年と1964年の二度にわたってチームをリーグ優勝に導いた、文句なしの名将でした。
また日本で初めて先発投手を「ローテーション」で回すことを始めたとも言われており、先発した投手が翌日にリリーフ登板することが当たり前だった時代に革命を起こしています。
もちろん時代が時代なので登板間隔は中2日とかなのですが、それでも当時の主戦投手だった村山実や小山正明などは「登板日が決まっているので調整はラクだった」と言ってたほどです。
しかし、1968年時点で藤本定義は64歳。平均寿命が伸びた現代からみるとそこまで高齢ではありませんが、今より10歳も若い69.05歳が平均寿命だったこの時代で言えば相当な高齢ということになる。
ここで阪神球団は人気のあった後藤次男を次期監督に指名し、1969年度シーズンを戦います。
ただし後藤次男はあくまで<つなぎ>でしかなく、常に上位をキープしながらも巨人に優勝をさらわれ続ける阪神をどうステップアップさせるか、そのために長期的に見た監督人事が求めれていたわけで。
当時、新聞紙上で「次期阪神監督の本命」と言われていたのは鶴岡一人でした。
南海ホークス一筋だった鶴岡は1968年度終了後に南海の監督を勇退。実に23年にも及ぶ在任期間のうち、Bクラスに甘んじたのはたった一度で、少なくともこの時点では歴代最高の名将でありました。
実は1968年度シーズン終了後、つまり鶴岡が南海監督を勇退した直後にも阪神は鶴岡と接触をはかっている。しかしこの時は実現せず、翌年になって再び打診をおこなった。
ただ、後年鶴岡が語ったところによると、正式に阪神から監督就任の要請されたことはないとし、真偽は不明ですが、知人にこんなことを漏らしていたといいます。
あのチームはおかしなチームやで。ワシを監督に・・・・・・とマスコミでは花火を打ち上げといて、ワシにはまじめに話をしてこんのやからな(政岡基則著「猛虎人脈」より)
阪神球団は鶴岡が提案した改革におよび腰だったと言われ、結果として鶴岡に正式なアクションを起こせなかった。そして「青年監督ブーム」に乗じて、村山実の監督昇格を決定するのです。
ただ、鶴岡に正式に監督要請をおこなわなかったことは、今となっては理解出来ないことはない。
鶴岡一人は文句なしの名将ですが、南海一筋であり、悪く言えば南海のことしか知らない。そこにリーグの違う阪神で(注目度はこの時点ではそこまで大きな差はない)、南海監督時代同様の全権監督を任せるのはリスクが大きいと判断した当時の阪神フロントの気持ちもわからないではないんです。
問題なのは「青年監督ブーム」に乗じて、安易に村山実を監督に推挙したことだと思う。
この年のオフ、南海ホークスは野村克也、西鉄ライオンズは稲尾和久を、いずれも「選手兼任監督」に就任させています。しかし野村克也は捕手、というか野手であり、稲尾和久は選手としては黄昏時だったことを考えると、まだ主戦投手だった村山実とはまったく立場が違うと言っていいと思う。
鶴岡はもし阪神の監督に就任した暁には、とある構想を立てていたと言われています。
村山実と、結果的に1969年度をもって現役を引退する吉田義男の両名を兼任コーチにして、監督としての英才教育を施す、といったものでした。
闘争心と悲壮感に溢れる村山実はファンからの人気は抜群でしたが、その直情的な性格を考えると監督に向いているとは到底思えず、2度とも監督として失敗している。
しかし、もし、鶴岡に英才教育を施されていたらどうだったか。ホワットイフでしかないので結果はわかりませんが、少しは違った結果が出ていたのではないか。
また吉田義男にしたところでもっと絶対的な評価のある監督になれたのではないかという気持ちが消えないのです。
いや、それでも鶴岡一人は土台阪神とは縁がなかった、とも言える。接触があった時点で改革をブチ上げ、球団を尻込みさせた時点で、阪神という特殊な球団の監督は向いてなかったのかもしれませんし、アクの強い村山や吉田が<所詮他所者>の鶴岡に素直に従ったとも思えない。
ならば、何故、この人に「村山と吉田を一人前の監督にしてくれ」と依頼しなかったのかと思う。
この人、とアタシが思うのは、松木謙治郎です。
ただし1969年オフの時点で松木は阪神の監督を受けるわけがない。何故なら1969年度シーズンから東映の監督に就任しているんだから。
ただね、藤本定義が退任した1968年度終了後なら、もし東映と阪神、両チームから監督就任依頼が来ていたら、誰よりもタイガース愛の強かった松木は必ず阪神を選んでくれたと思っている。
たしかにこの時点で松木は高齢でしたが、前任の藤本定義よりも5歳も若い。逆に言えば長期政権は無理に決まっているのですが、村山と吉田は松木から帝王学と「タイガースという特殊な球団で監督をつとめるということはどういうことか」を学んだ上で禅譲されたということになる。
もし、そうしたことが実現出来ていたら、安易に江夏豊や田淵幸一を放出することもなく、戦力的な低下は免れ、1990年代におとずれる暗黒時代も到来してなかったのではないかと思うんです。
アタシはね、帝王学というのは選手の立場では学べないと思っているんです。
星野仙一の元で帝王学を学んだ岡田彰布は翌々年に優勝していますが、星野政権時に主力選手だった金本知憲や矢野輝弘(現・燿大)は監督として、現時点でチームを優勝に導けていない。
だから思うんです。返す返すも、あの時、松木謙治郎を招聘していれば、帝王学を学んでいないかつてのスター選手がいきなり監督になる、という悪しき伝統が生まれなかったのではないかと。
何度も書いているように、ここまで書いてきたことは所詮ホワットイフでしかありません。
しかしアタシは思う。
野球を題材とした映画の最高傑作と言えば「フィールド・オブ・ドリームス」を挙げる人は多いはずです。
もっとも感動的なシーンとしてラストの親子のキャッチボールという人が多いのですが、アタシが一番感動したのは、とうもろこし畑から往年の名選手が現れるところで、この映画を見たのがちょうど暗黒時代というのもあって、もし阪神のピンチを聞きつけた往年の名選手が帰ってきてくれたら、と思うと泣けてしょうがなかった。
松木謙治郎が何度も夢に見たという「景浦将の帰還」はまさにそれではないか。そしてアタシが思う松木謙治郎の復帰はまったく同じ心理ではないかと。
ホワットイフでしかない、というのは簡単です。しかし歴史を俯瞰で眺めた時に「あれが不可逆の選択をした瞬間だったな」と感じ、そして「もし別の選択を選んでいれば」と考えることこそ、ものすごく重要なことではないかと思ったり。
結果的にアタシなりの阪神タイガースの創成期からの歴史絵巻になったんじゃないかと。って大仰だな。 いやマジで、井上章一の書いた「阪神タイガースの正体」は名著だと思う。もう新書で発売されてから20年ほどになるけど、今でも年に一回は読み直さないと気が済まないくらいでして。 ただね、他の書籍と読み比べると、あれ?と思うことがないこともないんです。 別に「阪神タイガースの正体」が間違ってるって話じゃないし、アタシが読んだ他の書籍が正しいと言い切る自信もない。その辺はまだ裏付けとかしてないから。 でも現時点で、アタシなりの「タイガース誕生話」であったりが書けるんではないかと。 きっかけとしては、松木謙治郎の夢に戦死した景浦将が何度も出てきた、という話に感銘を受けたところからスタートしています。だからこのエントリの軸というか主人公は松木謙治郎なんです。そこさえご理解していただければ十分です。 |
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