タイトルに「from USA」なんて入ってるけど、「x2」のうち、ひとりはアメリカ出身じゃない。けど、まあ、アメリカ経由ではるばる日本に来たんだから、いいんじゃないかね。ダメ?
あれは2003年のことです。
この年、阪神タイガースはふたりの外国人投手を補強した。ひとりはクローザー候補としてルー・ポート、もうひとりがオーストラリア出身という変わり種のジェフ・ウィリアムスでした。
期待度の高さでいうなら圧倒的にポートの方で、ウィリアムスは、まァ、中継ぎで、それも点差関係なく、とにかく馬車馬のように働いてくれたらいいんじゃない?その程度の期待値だったんです。ま、アタシの中では。
だいたい外国人投手で「左のサイドスロー」なんてキワモノに決まってる。目くらましで数試合は通用するかもしれないけど、すぐ慣れられて終わる。前年獲得したスリークォーター気味のトレイ・ムーアでさえ後半戦は慣れられていたのに。
当時アタシは東京に住んでおり、まだスカパーもストリーミング配信もない時代だったので阪神戦の中継もあまり見れる環境にありませんでした。
それでも開幕戦(かは忘れたけど開幕シリーズか)で見た限り、ポートは安定して使えそう、ウィリアムスは意外と球速がなくて、やっぱりしんどいんじゃないかと。
こうした素人見立てが如何にアテにならないか、数試合のちに痛感することになります。
アタシが「使える」と見立てたポートは制球を乱し、甘い球を痛打されるようになった。
一方ウィリアムスは、球速はそれほどではないもののスライダーがエグくて、打者が空振りした球が打者に当たるほどの恐ろしいキレがあった。(空振りしているので死球にはならない)
これ、もしかしたら、もしかするんじゃないの?
ここまで堅苦しく「ウィリアムス」なんて書いてきたけど、んで一部には「ウィル」なんて愛称もあったけど、アタシはやはり「ジェフ」と呼びたい。
ジェフなんて呼びたくなるほど、アタシにとってだけでなく阪神ファンにとって親しみのある選手になった、なったってのも変だな、とにかく認められていったんです。
ここまで読んでいただいた、ジェフをご存知の方からすると、もしかしたら「あれ?」と思う箇所があるかもしれません。
先ほどより何度も「球速はなかった」みたいに書いてきたけど、当時のジェフの球速は、まァスピードガンで表示されていた球速ですが、はせいぜい140キロちょいで、速球投手という感じではまったくありませんでした。
左の変則なので打者の体感速度はそれなりにあったかもしれませんが、何より当時のジェフの最大の武器は打者の手元で恐ろしく変化するスライダーで、つまり完全なスライダーピッチャーだったんです。
このスライダーはシーズン通して他球団の驚異となり、日本シリーズでも対戦相手の、プロ野球史上でも最強の打線を誇った福岡ダイエーホークスにその存在感を存分に見せつけた。
当時のホークスの監督だった王貞治に「あの投手は嫌だ」とまで言わしめたのですからね。
ま、一般にはジェフ・ウィリアムスと言えば2005年、藤川球児、久保田智之とともに形成した「JFK」でしょう。
これはもう少し先の話だけど、JFKはあの野村克也をして「いつから野球は6回で終わるようになったんだ?」と唸ったほど強力、いや強烈なもので、野村克也は「ウィリアムスの球を見て、うち(楽天)の打線じゃ無理だと思った」と言うほど圧倒的なものでした。
何よりJFKを引っ張ったのがジェフで、藤川球児も「(JFKの)リーダーはジェフ」と言うほどの信頼を勝ち取っていた。そしてチームがひとつになるようにミサンガまで作ったりもした。
2005年は結果、チームはリーグ優勝を果たしますが日本シリーズは4戦4敗の惨敗で、いまだに「33-4」と煽られたりしますからね。
ま、それはいいんだけど、シリーズ終了後にスポーツ新聞にジェフの手記が掲載された。
これが本当に泣けた。手記を読んで泣くなんてよっぽどだけど、これは例外です。こんな熱い気持ちがこもった手記なんてそうそうない。
あまりにも素晴らしいので、批判覚悟で転載したい。
こんな悔しい思いをしたのは生まれて初めてだよ。
たった10球でシリーズが終わるなんて。
せっかくリーグ優勝したのにこんな形で05年が終わるなんて…。
薄っぺらいパンにピーナッツバター。体が資本なのにマイナー(サンベルナンディーノ=ドジャース傘下)時代はまともなメシすら食えなかった。当時の月給は850ドル(約10万円)。グラブとスパイクを買っただけであっという間に一文無しさ。
でも夢があったから耐え続けた。
一線級で活躍できる選手になりたい、ワールドチャンピオンになりたい。
メジャーとマイナーを行ったり来たり。
そんな僕にチャンスをくれたのが、阪神タイガースなんだ。
当時日本のことで知っていたのは「フジヤマ」で、テレビで見た「ジャンボ尾崎」ぐらい。でも活躍の場に飢えてたボクは、迷わずそれに飛びついたんだ。
今まで学んだ野球理論、戦術、科学的トレーニング…。
でも日本の野球が勝ちたいと願う「キモチ」が大事だと教えてくれた。
今回100%の力を出し切れたとは思っていない。悔しいけどロッテには気持ちで負けた。
ワールドチャンピオンなんてもういらない。今のボクにはそれよりもっと大きな夢があるんだ。それは…ニッポンイチ!
今ここで、ファンのみんなに宣言したい。
これから先、ボクは何があっても阪神タイガースを離れない。
残された野球人生全てをこのチームに捧げたい。
キュウジ、クボタをはじめとするチームの仲間たちと、これからも戦いたい。シリーズを戦い終えた今、心からそう思っているんだ。
最後にファンのみんな、この1年間最後まで応援してくれて本当にありがとう。
そして来年もボクたちと一緒に追いかけてほしい。
今年果たせなかった最後の夢。
ニッポンイチという名の、世界一大きな夢を。
(阪神タイガース投手)
こうやってコピペするだけでも泣けてくる。「日本人以上にサムライの魂を持った男」というチームメイトの評価は妥当でしょう。
そしてもうひとつ、能見篤史を叱咤したことも知られている。これも転載したい。
能見が「精神面が弱い」「球の出所が見易い」と言われてもなかなか改善されなかった。
「戦力外」も囁かれ始めた頃に尊敬するジェフ・ウィリアムスに相談に行くと、激しく面罵されたらしい。
「精神面なんて誰でも弱いんだ、実力不足をそんな言葉で片付けるな」
「お前は精神面が弱いと言われて喜んでいるんだろ?活躍できない言い訳をもらって」
「ただ球の出所が見易いのは問題だ、野茂程ではなくても背中を打者に見せて出所を隠せ」
「俺が思うにお前の最大の欠点は球筋に角度がないことだ、長い手足を生かせていない」
「そのためには腕を下げて球筋に角度をつけるんだ、そうすればスライダーも生きる」
こんなに厳しく、同時に愛情にあふれ、さらに実利的な叱咤をアタシは聞いたことがない。
能見はこれ以降、たまに目くらましでサイドスローで投げ、そして球に角度を付けるコツを身につけたあとは本来のスリークォーターで先発として躍進し、気がつけば阪神のエースにまで成長しました。
アタシの持論として「一流は、もしかしたらたったひとりかもしれないけど、自分と同等の能力レベルの一流を作ることが出来る」と思っている。そう、山口高志が藤川球児を育てたように。
ジェフは2009年で退団、いや先の手記での宣言通り阪神で<引退>しましたが、ジェフの忘れ形見である能見は残った。つまりジェフの功績が残ったんです。
ジェフが退団した後、ジェフの「チームの役割としての後釜」としてランディ・メッセンジャーが入団してきました。
背番号はジェフと同じ54。同じく阪神タイガースに入団した城島健司の太鼓判という評価もあったけど、おいおい本当に大丈夫かと。
ジェフは最終的には速球を売りにしましたが、言っても変則投手ってのには変わりない。しかしこのメッセンジャーとやらは右の本格派。
シーズンが始まるとメッセンジャーはまったく「ジェフの後釜」の役割を果たせなかった。出るたびに痛打を浴び、やがて二軍に降格しました。
打たれるのは、そして通用しないのはしょうがない。それは阪神のスカウトの目利きの問題だから。
しかしアタシは、正直、メッセンジャーが大嫌いだった。何より腹がたったのは態度の悪さで、何でこんな打たれてもニヤニヤしてるようなヤツがジェフが背負っていた54番を付けているんだ?と思うと腹がたってしょうがなかったんです。
シーズン後半になって、メッセンジャーは何故か先発投手として一軍に帰ってきた。もはや中継ぎでは通用しないんだから最後の<あがき>として先発をやらせるんだろ、その程度に考えていました。
しかし先発になったからといって突然通用するわけではない。しかもアメリカでもほとんど中継ぎでの起用だったこともあってスタミナもなく、好投していても5回くらいでスタミナ切れになって捕まる、というパターンを繰り返した。
アタシはこの年限りでメッセンジャーはクビだと思っていた。阪神は外国人<投手>を獲るの<だけ>は上手かったし、この程度の先発ならすぐに見つかるだろう。何よりこんな態度だけデカい外国人を残しておく理由がないと。
ところが真弓明信監督の一声でメッセンジャーは残留となった。おいおい、冗談じゃないよ、というのが当時の感想でした。
しかし2年目以降、意外にもメッセンジャーは戦力になった。150キロを超える速球はそのままに、外国人投手としては珍しいフォークを武器にし、もうあまり投げる投手がいなくなっていたカーブまで操った。このカーブが絶妙で、単にタイミングを外すだけでなくコントロールもいい。速球一本槍でコントロールもアバウトだった中継ぎ時代とはまるで違う。
3種類も使える武器があるんだから、そりゃ通用する。んでいつの間にか先発で投げるスタミナまで身につけた。
こうして見るとよくわかるのですが、スタミナ抜群で、速球、フォーク、カーブを武器にする投手というのは日本のプロ野球において相当なオールドスタイルなのです。少なくとも昨今メジャーで主流となった「小さく手元で変化する球で勝負する」アメリカンスタイルではない。
つまりメッセンジャーは出身こそアメリカであるものの、投球スタイルは完全にジャパニーズスタイルであり、日本が、いや阪神が作り上げた投手なんです。
メッセンジャーはジャパニーズスタイルを身につけ、完全に阪神のエースになった。そのことも脱帽ですが、何よりアタシが謝らないといけないのは彼の人間性にたいしてです。
たしかに一見、態度が悪く見える。しかしそれは完全に誤解で、実はジェフ・ウィリアムスに負けない熱いハートの持ち主だということがわかった。
ここ一番では登板間隔を詰めてでも投げたし、中継ぎがヘバって来ているとなると完投する。それはけして給料のため、というようなみみっちい話じゃなく、自分もチームの一員なんだ、チームが大変な状況なら自分の出来ることは何でもする、という気持ちからだったんです。
だからメッセンジャーが年俸でモメたなんて聞いたことがない。むしろ、メジャーからそれなりの高額でオファーがあった時も阪神残留を選んでいる。
ここまで「メッセンジャー」と書いてきたけど、ジェフ同様、アタシは彼を「メッセ」と呼ぶようになったんです。
先ほど「一流は、もしかしたらたったひとりかもしれないけど、自分と同等の能力レベルの一流を作ることが出来る」と書きましたが、メッセは捕手である梅野を育てあげた。
梅野がルーキーのキャンプの時から目をかけ、途中からメッセが先発する試合は梅野が先発マスクを被り続けた。梅野も順風満帆ではなかったので一時期はあまり先発で出ることがなくなっていたんだけど、そんな時期でもメッセは梅野を相方に指名し続けた。
世間の評価はともかく、アタシの中では梅野は現在球界最高の捕手になったと思う。それを育てたのがメッセだったわけで。
ただメッセとして心残りは藤浪を何とか出来なかったことでしょうが。藤浪のことを常に気にかけ「このままでは並の投手で終わる」という発言はジェフの能見への叱咤に似たものを感じてしまいます。
2019年、メッセは引退を表明しました。
引退会見でさえちょっとウルっときたのに、引退試合とかどうなるんだ、と思ってたんだけど、案の定泣けた。
引退スピーチも素晴らしかったし、何より本当にチームメイトから愛されていたのがわかって、アタシも感極まってしまったんです。
気がつけば、あれだけ大嫌いだったはずのメッセは、あれだけ大好きだったジェフと同等の存在にまでなっていた。
ウチは代々阪神ファンなので、母親はジーン・バッキーの現役時代を憶えています。バッキーも日本が大好きでファンに愛された外国人投手でした。
バッキーはくしくも2019年に逝去した。晩年、メッセと交流を持ち、いつか日本に行ってみたい、君(メッセ)が100勝を決める試合を甲子園で観戦したいと願ってたと言いますし、2019年10月に招待で来日することが決定していたらしい。
現実は残酷というか、メッセの日本通算100勝も、バッキーが再び甲子園を訪れることも、夢と消えてしまいました。
しかし、バッキー、ジェフ、メッセの、日本人に負けない熱い魂は確実に阪神タイガースというチームに受け継がれた。とくに同じ背番号54を背負ったジェフとメッセの魂は今もチームに残存します。
阪神はよく外国人をハズしてばかり、と揶揄されますが、アタシはこんなに外国人に恵まれた球団はないと思っている。ここまでチームを、そしてチームメイトを愛し、チームのためにやる外国人がどこの球団にいた?そう思ってしまうのですが。