藪似的人形町の歴史
FirstUPDATE2019.11.21
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 なるべく興味を持ってもらえるように「人形町の歴史」を振り返ろうと思うのですが、しかしあらためてね、こういうエントリを書こうとして痛感したけど、ホント、学校の先生とか大変だと思うわ。学校なんていっても結局はそこら辺にいるクソガキ(失礼)もといお子様に興味のないことを教えなきゃいけないんですからね。

 アタシとて同じで、興味さえあればいくらでも頭に入ってくるし、自主的に調べよう調べたいとも思える。でも興味のないことなんか一分一秒たりとも聞きたくない。クソガキを卒業してクソオヤジになった今も何も変わりません。
 ましてや自分が教える側になるなんて考えただけでもゾッとする。興味のなさそうな顔で耐えてるのを見るのは辛すぎるし、少しでもこちらが間違えようなものなら「あー、それ、違うんですけど。馬鹿なんですか?死のうとは思わないんですか?」なんて言われるんでしょ?言われない?

 さて、戯言はさておき本題に入ります。
 徳川家康が江戸に幕府をひらいたのは、なんてことから始めてもしょうがないのですが、とにかく徳川幕府成立以降、江戸は鎌倉を抜き関東最大の都市に成長します。
 もう当たり前の話なのですが、人が増えれば増えるほど風紀は乱れる。これはナニ時代であろうがナニ人であろうが一緒で、人間が集まると品性とか関係なくそういうことになるのです。
 あまりにも風紀の乱れが酷くなりすぎると暴動が起きたり、病気が蔓延したり、貨幣価値がおかしくなったり、デメリットがいっぱい出てくる。そんなことを繰り返せば幕府の足元も揺らぐわけで、幕府が風紀の乱れの取り締まるのは当然です。
 とくに性風俗は風紀の乱れの代表選手みたいなものですから、当然真っ先に取り締まり対象になるんだけど、だからと言って性欲を抑えろというのも無理がある。ならば地域を決めてその範囲でのみ性風俗営業を認めよう、となった。これなら取り締まりやすいし、実に合理的です。
 そして栄えある江戸唯一の、性風俗営業許可地に選ばれたのが今の人形町になるわけです。

 おいおい、性風俗営業の地に選ばれたことが何が栄えあるだ、とお叱りを受けそうですが、これがこの地の発展の理由になったんだからしかたがない。
 徳川幕府が興ってすぐの時代、今の人形町の一帯は、ヨシが生い茂るだけの何もない僻地だったらしい。何もない、これ幸いとばかりに開発もしやすい。ちょっと頑張れば江戸城からも歩ける範囲であり、場所的にもそこまで悪くない。
 結果、幕府からこの土地を譲り受けた庄司甚右衛門が遊郭を作った。これが1617年らしい。ちなみに遊郭の代名詞とまでなっている「吉原」という名前はかつてこの地が「<ヨシ>が生い茂るだけの<原>」だったことから来ています。
 って待てよ、吉原って浅草の方だろって?鋭い。その通り。1656年に遊郭は浅草に移転しています。だから今も遊郭街の名残のある浅草の吉原は正確に言えば「新吉原」なのです。
 遊郭がなくなったためか、混同されるのを避けるためか、やがてこの地は「芳町」と呼ばれるようになり、中村座なる歌舞伎小屋が出来ていました。その影響で遊郭が去った後の人形町は興行街として生まれ変わったのです。
 こうした街の変遷は別に珍しいことではない。現代の秋葉原を見れば一目瞭然で、いともたやすく<電気街>→<パソコンの街>→<萌えの街>と姿を変えてますしね。

 遊郭跡、歌舞伎小屋が立ち並ぶといった条件が整っていたせいなのでしょうが、陰間茶屋も多くあったと言われています。陰間、つまりは男娼のことでして、まあ言えば今の新宿二丁目に連なる歴史が始まった場所というか。
 現在の人形町という地名もかつて興行地だった頃の名残であり、浄瑠璃などの人形芝居を行う小屋も多く、そのため人形師たちがこの近辺に移り住んだ。そのために人形町なんていうフシギな町名になったわけです。
 江戸最大の興行街としての姿は江戸時代末期にあたる1841年まで続きます。逆に言えば1841年で終わったっつーことになる。火災で大半の芝居小屋が消失したからで、消失後はこの地に芝居小屋は復活せず、興行街は猿若町に移転してしまいました。
 遊郭が去り、芝居小屋が去った。普通ならこれで寂れる一方になりそうなもんですが、転んでもタダでは起きないのがこの街の良いところでして。
 明治に入った頃からは花柳界が隆盛を極めましたが、柳橋が近いこともあり、今度は花街として息を吹き返した。
 そしていよいよアタシの大好きな戦前モダニズムの時代に入るのですが、これはまた今度書きます。

 こうやって書き連ねればお判りになっていただけると思いますが、人形町はどう贔屓目に見ても上品な土地柄ではない。街が出来た理由が「遊郭が構えられたから」なんですから上品なわけがないのです。
 ただし、いわゆる下町地域にありながら、人形町が(松竹大船で作られた人情喜劇のような)下町的であったことは歴史上一度もない。というか純粋な住宅地だったことさえない。
 街が拓けて以降、常に江戸市中、東京市中の人が「お上りさん気分で訪れる」ある種の花道のような街だったのです。
 この地で生まれ育った青島幸男(正確には堀留町だけど)を例に出せば、彼の生家は仕出し弁当屋でした。が、考えてもみてください。住宅地で仕出し弁当屋なんて成立するわけがないんだから。

 地域的には下町ながらも都会的でモダン、都会的でモダンでありながらもけして上品ではない。上品ではないものの下町的なベタベタした感じがなくサラッとしている。こんな場所は日本中探しても人形町しかない。だからこそアタシも人形町に魅せられているわけでしてね。

年表があるわけではない、あくまでアタシ個人が重要だと思う人形町の歴史を書いたのですが、流石に玄冶店のことはそろそろ書かなきゃな。




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