面白半分
FirstUPDATE2019.10.18
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 かつて「面白半分」という雑誌がありました。どうも戦前期に宮武外骨が同名の雑誌を作ってたみたいだけど(未調査)、そのコンセプトを受け継いで吉行淳之介が創刊させたらしい。

「面白くてタメにならない雑誌」を標榜したってのはアタシの感性に合うんだけど、残念ながらアタシが子供の頃には廃刊になってしまったので愛読することはなかったわけでして。

では源等(現注・「ニッポン無責任野郎」において植木等が演じた主人公)はどうか?無責任なのは同じだが、悪意を露呈する場面はほとんど、いや、まったくないのである。彼は無責任というかデタラメの限りを尽くす。何をやるにしてもすべてその場限りの対処しかしない。また他人の悩みには面白半分で焚きつけたりもする。しかしこの「面白半分」というところがミソで、じゃあ後の半分の行動原理は何なんだということになる(CrazyBeats「ニッポン無責任野郎・徹底深読み」/現注・現在は当該エントリはオミット)


いやね、どうもこの「面白半分」ってのは、かなり深い言葉じゃないかと思い始めましてね。
面白半分、なんていうと「面白半分に他人を焚きつける」みたいに使われるケースが多いけど、これは他動ではなく自分主導で考えた場合、面白半分って発想は絶対に必要なんじゃないかと。
つか「面白」なんて言葉が使われているから誤解が生じる。まァ実際は「面白」なんだけど、楽しいとか愉快とか笑えるとか全部含めての「面白」だと思うんですね。

人間、自分を成長させるためだ、辛いだけなのはわかってるけど、なんて気持ちではじめても、まあ続かない。どんなことだろうと自分なりの楽しみを発見してやらないとすぐに嫌になる。
とくに新しく何かをはじめる前は、どこに面白みがあるか考えてはじめることが重要でして、その割合が5割、つまり半分に達していたら続きやすいはずです。逆に言えば面白半分まで至らない、いくら考えても辛いことの割合の方が多ければ、はじめからやらない方が賢明なんじゃないかとね。

ここまでは冷静に考えれば当たり前の話。本題はここからです。
マジメな話を書いてもしょうがないので趣味のことを書いていきますが、さあ、これから新しい趣味をはじめるぞ!みたいな意識でやり出したことは一回もないんです。
何となく興味を持って、気がついたらハマってたってケースしかない。つかいまだにそうなんだけど、新しく何かをはじめるとなってカルチャーセンターのような場所に行く人の気持ちがよくわかんないんですよ。
趣味なんかとくにそうだと思うんだけど、アタシの場合、何もわからない状態から、つまりイチからはじめないと面白く感じないんです。

モバイルだって何もわからないところからはじめてね、当時(2001年頃)はインターネットはあったけど、インターネットで得られる情報量は今とは比べ物にならない。要するに検索すれば基本的なことくらいはわかる、というような時代ではなかったわけで。
もろちん今は違うんですが、逆に面白くなくなったなァとさえ思う。

つか一気にわかってもどうせ理解出来ないわけで、ちょっとずつわかった方が確実に理解しやすい。いや本当なら何年もかけて学習した方がいいはずなんです。そっちのが確実に知識になるから。
ただ何年もかけてとなると、調べて知識を得るというのに面白みを感じてないとウンザリしてしまう。じゃあどこに面白みを感じやすいかとなると、結局は<可能性>だと思うんですよ。
モバイルには無限の可能性を感じた。んで少しずつ情報を得ることが出来た。つまりきわめてハマりやすいモノだったと今になってわかったっつーか。

しかしさっきも書いたように今は検索するだけで基本的なことは全部わかってしまう。今から「さあキャンプをやるぞ!」となっても、どんな道具が必要かとか設営のやり方まで簡単にわかってしまいます。
これがアタシには面白くない。しかも検索でわかっただけなので、これも以前書いたように知識が脳に定着しない。
となるとアタシが面白く感じる<新しい趣味>は「検索しても簡単にわからないこと」ってことになってしまうわけで。

そうなるとここ数年に戦前モダニズムにハマったのは「なるべくしてなった」とさえ言えると思う。
戦前モダニズムは興味を持ってる人が少ない。だから検索してもロクな情報が出てこないし、たまにまともなこと書いてありそうだな、と思ってサイトを開いてみると自分が書いたヤツだったり。
でも、だからこそ面白い。全部自分で調べられる。

何が言いたいのかといえばですね。
英語が喋れるようになる!とか仕事のために資格を取る!とか、そういうのは面白半分っつーか半分は面白いって気持ちがなければやってられないように、趣味のような面白くあって当たり前のことは面白いだけじゃなくて半分は苦労がないとやる意味が薄いんじゃないかと。
全部が全部面白いだけ、何を調べるのもやるのも簡単な趣味なんて、これは逆に早々に飽きてしまうんじゃないかと。他人にマウントをとるためだけにやるのであればそれでいいんだろうけど、すぐに飽きるような趣味をはじめてもしゃーないやん、と思ってしまうわけで。

面白半分、つまり苦労も半分。そのバランスがとれてこそ長く続けていけると思うし、どっちかに偏ったら趣味にしろ自分を向上させることにしろ、続かないし身にもならないんじゃないかねぇ。

宮武外骨って人はアタシが大学生の頃だったかに軽いブームがあったのかな。当時のアタシはまだこの人のすごさを噛み砕く力がなくて評伝みたいなのを一冊読んだだけだったのですが、戦前モダニズムに興味をもった今なら多少は噛み砕けるようになったというか。
ま、この人は明治・大正期の人だから戦前モダニズムとはあんまり関係ないんだけど。




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