これ、前に同じようなことを書いたことはあるんですよ。でもCrazyBeats用のエントリだったし、しかも「クレージー大作戦・徹底解剖」という長文の一番最後に書いたものなので、たぶんほとんどの人は読んでないんじゃないかと。
で、何を書くのかというと「君も出世ができる」という映画についてなのですが、主演のフランキー堺とはアタシも浅いとはいえまったく縁がないわけじゃない。
だから本当は、あんまり辛辣なことは書きたくないんです。というか非常に書きづらい。にもかかわらず、というか何度見てもこの映画、やっぱり手放しで称賛は出来ない。しかも称賛できない最大の原因がフランキー堺にあるとしか思えなくて。
具体的に書いていく前に、これも何度も書いたけど、自分は「シネミュージカルのストーリーは単純であればあるほどいい」と思っているのですが、そうなると脚本が笠原良三ってのはマイナスにならない。つかこういう何のアイデアもないけど無難なストーリーばかりを書く笠原良三みたいな人の方がシネミュージカルの台本作家には向いていると思っているんでね。
だから「ハナシがどうこう」言うつもりは一切ないし、いくら勉強してきたといっても監督の須川栄三は資質的にミュージカルに向いている監督ではない。
にもかかわらず、かなり善戦している。シネミュージカルにとって禁物の<安っぽさ>もほとんど垣間見られません。
つまりは、少なくとも作り手側の落ち度みたいなのはあんまりない。そりゃあ完璧とはほど遠いけど、日本でこれだけのことをやったってことがすごいレベルだと思うし。
それでも映画の出来はけして芳しいとは言えない。小林信彦はこの映画を『65点ぐらい』と採点してますが、アタシも無理に採点すれば同じような点数になる。けして箸にも棒にもかからない作品ではないし、頑張ってるのは痛いほどわかるけど・・・、くらいの評価しか出来ないんです。
完璧にほど遠いにしろ、作り手側に大きな問題がないのであれば、作品の出来が高くならなかったのは出演者のせいということになってしまいます。
しかし、たったひとりを除いて、出演者が悪いというほどでもないんですよ。高島忠夫は野暮ったいんだけどそれを活かした役どころだし、雪村いづみも年齢のわりに老けてる感じはするし、どうもヒロインらしくはないんだけど、悪いとまではいかない。
となると、もう、矛先はどうしても主演のフランキー堺に向かってしまいます。
しかし肝心なのはフランキー堺の「演技」や「歌」といった<芸>に問題があるということではないんです。
むしろこの映画においてのフランキー堺の達者きわまる動きは数ある邦画の中でも最高峰だとさえ思う。それはオープニングからタイトルバックに至るまでの短いシークエンスを見るだけではっきりわかります。
アタシが敬愛する植木等や加藤茶、そして動きの職人とまで言われたエノケンさえも遠く及ばない、日本人でここまで完全なコメディアンとしての動きが出来る人がいるのかと感嘆するほどです。
終盤になるにつれ息切れするわけでもなく、最後の最後までフランキー堺はキレの良い動きを見せる。そこだけ取れば余裕で「この手の、日本であまり成功例のないシネミュージカルの主役」に相応しい役者には違いない。
なのに、まったく面白くならない。フランキー堺がいくら華麗に動こうとも「感心する」で止まってしまう。華麗ったってもちろん小さい<くすぐり>は入れているんですよ。でも「笑えない」どころか「楽しい」とか「ウキウキする」気分にすらならないのはどういうことだろうと。
この映画にはワンシーンだけ植木等が「特別出演」という形で出てくるのですが、たった数分の出番でフランキー堺を完全に「食ってる」んです。
植木等はフランキー堺のような華麗な動きが出来るわけではない。たしかにあぐらをかいたまま後ろにバッタリ倒れるのは見事だけど、それはフランキー堺でも可能なことです。だから、こと技術にかんしてはフランキー堺は何ひとつ植木等に劣ってるところはないんです。
なのに<面白い>と感じるのは植木等が特別出演したシーンだけで、小林信彦も『観客が爆笑したのは(中略)植木等が数分間出演した(中略)シーンだけ』と記しています。
何故そこまでフランキー堺の、この映画においての存在自体が面白くないのか、これはもう致命的なことなんだけど、とにかく華がないんです。
アタシもさすがに「幕末太陽傳」くらいは見てるけど、この頃のフランキー堺は(もちろん全盛期の植木等ほどではないにしろ)主役がつとめられるだけの華はちゃんとある。なのにそれが、わずか7年後の「君も出世ができる」で見事に消え失せているのが不思議でならないレベルなんです。
シネミュージカルというのは普通の映画とはまったく違います。ストーリー展開として凝ったものは必要ないし、極端に言えば「おざなり」なもので構わない。むしろそっちの方が成功する確率が上がるほどです。
そしてもうひとつシネミュージカルに欠かせない要素として「主役が歌い踊るだけでも文句なしに楽しい気分になれる」ってのがなきゃいけない。
小難しい理屈一切抜きに、もうこの人がスクリーンで暴れ回るだけで十分、と思わせなきゃいけないのです。
この映画が作られた1964年時点で、植木等にはそれがあった。そしてフランキー堺にはなかった。そうなるとどれだけフランキー堺が芸達者ぶりを見せつけようと映画としては「まあまあ」以上の評価は出来っこないんです。
藤本真澄が「あの映画の主役を植木等がやったら絶対アタった」って発言は、フランキー堺には酷かもしれないけど真理だと思う。そしてコメディアンにとって「魅力につながらない技術に何の意味もない」という証明にさえなってしまった。
それでもアタシは思う。少なくとも日本の歴史上、もっとも高い能力を有していたのはフランキー堺だ、とね。
フランキー堺は「有能すぎるが故の弊害」ってのをもっとも感じる人で、頭が良すぎるが故に周囲が莫迦に見えてしかたがなかったであろう古川緑波に通じるものを感じます。 本当は能力的には圧倒的に上なはずなのに、コメディアンとしてもミュージシャンとしても役者としても、そして後世の評価も、植木等とこれほど差をつけられて下に思われるとはね。 何というか、これこそまさに芸能ですよ。能力的に優れていれば、イコール最高の芸能人になれるのか、という答えはフランキー堺と植木等を見れば一目瞭然ではないかと。 |
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