アタシはね、基本、人間と言うのは<マジ野郎>と<フザケ野郎>のどちらかに分けられると思っています。<野郎>とは書いたものの、これは男女問わずなのですが。
マジ野郎がフザケたことをやると何かわざとらしい感じになるし、逆にフザケ野郎がマジになると嘘臭い感じになる、というか。
これは自身のすべてをさらけ出すことで成立する映画監督だとわかりやすい。
人によっては怒るかもしれないけど、アタシは黒澤明なんか完全にフザケ野郎だと思うんですよ。
例えば「用心棒」なんか、あれはマジメに撮ってもしょうがない映画なんです。つかもし黒澤明がマジ野郎なら「用心棒」もそうだし「生きる」もね、たぶんものすごいつまらない映画になったと思うんです。
というか黒澤明監督作品ってベースがフザケてるからこそ面白い。てか基本「題材は喜劇的ではない(活劇など)のに、タッチはどことなく喜劇風」なのが黒澤明の魅力だと思うから。
その点喜劇作家としての色が濃い山田洋次は実はマジ野郎なんですよ。
これだけは言っておきますが、アタシは山田洋次の映画は好きなんです。でも笑える笑えないで言えばまるで笑えない。何つーか、ギャグが本能的ではない。つまり感性に訴えかけてこないんで笑い出すまでいかない、というかね。
さて先日、雑文として前田陽一が監督をつとめた「喜劇 昨日の敵は今日も敵」について書いたのですが、かなり面白かったので手持ちの前田陽一監督作品を片っ端から見たんです。っても全部で6本しか持ってなかったんだけど。
具体的には
・にっぽんぱらだいす(松竹)
・喜劇 右むけェ左(東宝・渡辺プロ)
・喜劇 昨日の敵は今日も敵(東宝・渡辺プロ)
・喜劇 起きて転んでまた起きて(東宝・渡辺プロ)
・喜劇 あゝ軍歌(松竹)
・神様のくれた赤ん坊(松竹)
の6本ですが、わざわざ括弧内に制作会社を併記したのは、あまりにも特色が違うからです。
まず松竹作品から書いていきますが、そもそも前田陽一は松竹出身です。知ってる方からすれば当たり前の話ですが、ここを理解してもらってないと以下の文がイミフになるので念押ししておきます。
デビュー作でもある「にっぽんぱらだいす」は「今村昌平の再来」とさえ言われたほどの重喜劇で、評価の高い作品です。
そしてその「にっぽんぱらだいす」よりさらに評価が高いのが「神様のくれた赤ん坊」で、大抵は「前田陽一の代表作」ってことになっている。たぶんこの作品の成功があったから晩年まで映画を撮り続けることが出来たんだろうし。それまでの「一部に熱狂的ファンがいるがヒット作のない監督」という評価を覆したんだから、極めて重要なターニングポイントになった作品なのは間違いないとは思う。
どちらもね、間違ってもつまらなくはないんですよ。よく出来ているとも思う。ただどうも、イマイチアタシに迫ってこない。
何でだろ、と考えた時に、これはもしかしたら前田陽一という人の「能力」ではなく「本質」の問題ではないかとね。
では「あゝ軍歌」は置いといて、東宝・渡辺プロで作られた3本です。
ざっくり「東宝・渡辺プロ」とは書いたけど、正確には完全に渡辺プロダクション作品で、東宝は前田陽一以外のスタッフの提供と配給を請け負ったにすぎない。
だけれども面白いのが作風が完璧なまでに東宝風味になってるんですよ。
しつこいですが前田陽一は完全に松竹側の人です。なのにこの3本にかんしては見事なほど東宝カラーである「ノーテンキいい加減ノリ」になってる。とくに「いい加減極まるハッピーエンド」はあまりにも東宝的でありすぎる。
この3本が作られたのは1970年から1971年にかけてです。週替りで二本立てを上映する、いわゆる量産体制時代の最末期で、もうこの頃には東宝内部でさえここまで東宝的な作品をてらいもなく作る監督はいなくなっていた。
それを部外者である前田陽一がやった、というね。
先ほども書いた通り、「にっぽんぱらだいす」も「神様のくれた赤ん坊」もけして悪くない作品です。そして喜劇と言えば喜劇、と言える。
ただね、どちらも「ちゃんとした映画」なんですよ。「神様のくれた赤ん坊」は言うに及ばず「にっぽんぱらだいす」も<重喜劇>だの<今村昌平の再来>だのといったワードからもわかるように、マジメな映画ではないけど、ものすごくちゃんと作っている。
でもそれがアタシには異様に堅苦しく感じる。どうも最初に書いたように「フザケ野郎がマジにやってる」みたいに思ってしまうんです。
前田陽一はやっぱりフザケ野郎だと思う。よく前田陽一の作風としてブラック要素がとか言われるけど、フシギとそんな感じがしない。「あゝ軍歌」も、たしかに靖国神社が主題ではあるんだけど、風刺を前面に押し出して世の中に物申そう、みたいなのを感じないんです。
「右むけェ左」が一番わかりやすいけど、自衛隊を舞台にしながら戦争批判の影が微塵もない。しかも軍隊コメディにすらしていない。自衛隊を舞台にして「ただ笑わせよう」としているだけなんです。
前田陽一の作品から思想的なものを見出そうとすればするほど、この人の本質を見誤るんじゃないか。
「あゝ軍歌」とか「昨日の敵は今日も敵」の重要なシークエンスである精神病院のくだりだって、単純に笑わせるための手段だったんじゃないかとね。
というかこの時代は今とはタブーが違うもん。別に、危険なことをやろう、みたいな発想は皆無で、キ○ガイを出せば笑えるだろ、みたいな程度の話だと思うわけで。
だからどうも、おそらく世間的な評価はゼロに近い渡辺プロ三部作の方が面白く感じてしかたがない。というかフザケ野郎の前田陽一には、松竹出身でありながら実は東宝の方が合ってたんじゃないかねぇ。
ま、当人がどう考えていたかはぜんぜんわからないけどさ。