時代がわからなくなる街・神戸新開地
FirstUPDATE2018.9.15
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私は下町(神戸)の生まれ、その少年時代(筆者注・大正時代)には、前もうしろも横も、つまり「家の人たち」は活動を見に行った。(中略)映画館は、神戸は新開地と称したところに8館9館と集まっていた。(中略)まったく活動写真通りと呼べるフィルムの匂いがたちこめた映画館通りであったのだ。』(淀川長治著「シネマパラダイス」)


 かつて神戸の新開地には聚楽館という東京の帝国劇場と並び称された大劇場がありました。
 余談だけど、聚楽館は本当は「じゅらくかん」と呼び習わす予定だった。ところが神戸の人はみなここを「しゅうらっかん」と呼ぶようになる。いつからか「しゅうらっかん」が正式名称になった。
 アタシは知らないけど、母親の話では「♪ ええとこ ええとこ しゅうらっかん」というCMまであったそうです。
 今の人には「そんな大劇場なら三宮に作りゃよかったんじゃ」と思われるかもしれません。
 これは最初に引用した淀川長治の著述からもわかる通り、かつて、大正時代までは新開地こそが神戸最大の歓楽街であり、映画館も劇場もほぼ新開地に集中していたのです。

 新開地に住んでる人には悪いけど、今の新開地は見るも無惨な姿に変わり果ててしまっています。
 前に書いたように浅草だってあの有様だし、新世界も(昨今の串カツブームとやらでやや盛り返していますが)、基本コワいところであるのは間違いない。
 しかし新開地に至ってはもっと酷く、もはやコワいところですらない。寂れて寂れて寂れ切って、ただの地方の寂しい、商店のほとんどない商店街になってしまいました。
 この凋落は最近始まったことではありません。アタシの子供の頃(1970年代)からすでに寂れており、母親が「昔は新開地まで映画を観に行ってた」というのが信じられないほど、往時の面影がなかったんです。
 だからアタシは新開地が神戸随一とまではいかなくても、三宮に次ぐ第二の歓楽街だった頃すら知らないわけで。

 だけれども、1970年代には、アタシは家族と一緒に新開地に定期的に足を運んでいました。と言ってももちろん映画を観に行くわけではありません。
 理由は簡単で、新開地に親戚が住んでいたからです。
 この家がちょっと変わった家で、裏店になるのかな、とにかく表通りから細い道(おそらく私道)を通り抜けたところに門と玄関がありました。
 家に入るとさらに変で、玄関の先にはやたら広い畳敷きの部屋があり、その隅っこに火鉢とテレビが置いてある。アタシら家族が訪ねるのは大抵日曜日の夕方だったので、本場所中は相撲が、相撲のない時は「笑点」が映っていました。
 (どうでもいいことだけど、「笑点」でやってた黒子が出てくる龍角散のCMと、この部屋の記憶がセットになっている)

 そこは叔父さんと叔母さんの二人暮らしでした。叔父さん叔母さんと書いたけど、どう見ても祖父や祖母と同じくらいの年代で、おじいさんおばあさんと言った方が適切な見た目でした。
 老けている、といったことだけでもなく、ふたりとも着物で過ごしているし、叔母さんは三味線を弾くし、踊りも踊る。つまり現代的要素がまったくない生活なので、より年を召したように見えた。
 さっき<踊り>って書いたけど、当然ダンスではない。まァ日本舞踊のようなものです。
 だだっ広い畳敷きの部屋は、踊りを教えていたからで、つまりここは自宅兼稽古場だったわけで。
 訪ねると稽古が長引いてる時があって、そういう時は黙って稽古を眺める。叔母さんは踊りを教えながら三味線を弾く。
 これはどう見ても1970年代的光景ではない。子供の頃にはわからなかったけど、下手したら大正時代以前の光景です。
 部屋もテレビがある以外は火鉢といい、小ぶりの茶箪笥といい、昭和以降の文明の香りがほとんどない。
 言っときますけど、この頃にはもう石油ストーブも電気ストーブもコタツも余裕でありましたからね。

 大人になってから、この親戚について驚くようなことをいくつか聞いた。
 ひとつが叔父さんと叔母さんの年齢。何と50歳前後だったらしい。50歳前後って、それ、今のアタシの年齢じゃん。いや老けがどうこうよりも、叔父さん叔母さんみたいな、あんな良い意味で枯れた空気なんてアタシには微塵もないよ。つか出せないよ。
 これは時代が違うというひと言で済ますとしても、もうひとつはもっと驚愕ものだった。
 母親曰く「あのふたりは夫婦じゃない」。
 ええっー!?ですよ。どうも叔父さんの方が父方の親戚だったらしいんだけど、叔母さんは叔父さんの奥さんではないという。
 じゃ何なんだ、と聞けば二号さんだったらしい。
 二号さんと言っても叔父さんは常に新開地の家にいるし、本妻のところへはまったく帰ってなかったそうな。
 ふたりとも年齢的なこともあるし、もうこれは浮気とか二号さんとかというような問題ではないんだけど、それにしても、ということは親戚の叔母さんと思ってた人は親戚の叔母さんでもなんでもなかったってことか。うーん。

 もうこの際、親戚の叔母さんってことにしておくけど、叔母さんはもともと芸者をやってたって話です。そのうち出稼ぎに来ていた叔父さんと<いい仲>になって、やがて夫婦同然の生活が始まったと。
 しかし元芸者なら、そりゃあ三味線も踊りもお手の物だし、人に教えることも訳ないよなぁ。
 さすがに大正時代ってことはなかったけど、おそらくあの新開地の家は、戦前から戦後すぐくらいの芸者の生活のまま、いわゆる置屋に近いものだったんじゃないだろうか。そう考えればいろいろと疑問も氷解するし。

 叔父さんも叔母さんもとっくに亡くなってるし、あの家も新開地にはありません。
 けどほんと、今考えたら貴重な体験をさせてもらったとつくづく思う。たしかに新開地華やかなりし頃には間に合わなかった世代だけど、それよりさらに前の、文明糞食らえな生活を垣間見れただけでもよかった。まして今のアタシはそーゆーのが好きで調べたりとかしてるんだからね。 いやむしろ、アレを体験してたからこそ、今そーゆーのが好きなのかもしれないしさ。

これ、すごくフシギなんだけど、昔はそれこそ畳の上での生活で、みな畳の上で胡座をかくなり正座してたりしてたわけです。
しかし、もし今のアタシが「畳の上で生活しろ」と言われてもまず無理で、それは洋式の生活に慣れたからではなく、胡座なり正座の状態から立ったり座ったりに腰が耐えられない。もちろん椅子に座りっぱなしだったのが腰痛の始まりなのは否定しないけど、一旦腰痛になった以上、どう頑張ってもアタシには無理だわ。
つか昔はあんまり腰痛の人がいなかったのかね。これだけ道が舗装されてね、もちろん舗装にはメリットはいっぱいあるけど足腰への負担だけ考えたら絶対土の道のがいいよな。




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