純文学からもギャグは派生する
FirstUPDATE2018.5.10
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アタシは創作ってのはふた通りの方法しかないと思ってるところがあってね。ひとつは細部から世界観を紡ぎ出すタイプ、もうひとつは世界観から細部を決めていくタイプ、というふうに。

創作とまで言うと話が広すぎるけど、<笑い>の作り方ひとつ取っても、ギャグからストーリータイプとストーリーからギャグタイプがいる。ま、全部が全部とは言わないけど、ギャグ→ストーリータイプはスラップスティックコメディに、ストーリー→ギャグはシチュエーションコメディになりやすい。コメディでもコントでも基本は一緒です。
どっちの方が作りやすいのかも人によるとしか言いようがないんだけど、それでもストーリー→ギャグの方が一般的には作りやすいと思われているんじゃないでしょうか。
たとえば、題材は何でもいい。それこそ忠臣蔵でも白雪姫でも。そうした出来合いのストーリーにギャグをはめ込めば、まァ、パロディにはなります。パロディって言葉自体厳密に使わないとうるさい人がいるけど、パロディでいい。んなもんいちいちサタイアとかカリカチュアとか使い分けてらんないもん。

それにしてもギャグ→ストーリーってのはなかなか理解し難い。しかし、ひとつのギャグを活かすために、最大限そのギャグが引き立つようなストーリーをこしらえる人はそれなりにいます。
アタシは意外と芸人やコメディアンにこのタイプは少ないと思っているのですが、ギャグ漫画家はギャグ→ストーリータイプの方が多い気がする。
前も書いたけど、初期の「うる星やつら」とかまずギャグがあって、それに合わせて世界観を含む設定を決めていったのは間違いなく、それがラブコメ寄りになるにしたがって登場人物の細かい設定を決めていかなければならなくなった(つまりストーリー→ギャグタイプに変化した)って感じなんですよね。
赤塚不二夫なんかはギャグ→ストーリータイプの典型で、ギャグになるのであればバカボンのパパだって平気で殺すし、人殺しも(それもかなり残忍な方法で)させる。でも死んでないし、罪にも問われない。何故ならストーリーはギャグを活かすための手段でしかないからです。

しかし、もしかしたらこの人はストーリー→ギャグタイプなんじゃないか、と思えるギャグ漫画家がいます。
というか完全にノーマークだった人で、大人になるまでこの人の漫画をまともに読んだことがなかったんだけど、ちゃんと読む毎に痛感した、というか。
その漫画家とは山上たつひこ、作品でいえは「がきデカ」です。

「がきデカ」はこれ以上はない、と言えるほど、わかりやすいギャグ漫画です。劇中のセリフこそ標準語であるものの山上たつひこ本人も認める通り、大阪的な下衆でゴリ押し感の強い、もとい良く言うならパワフルなギャグしかなく、シュールに見えるようなギャグもただ無意味なだけで、ビジュアルの面白さを重視しているだけだしね。(八丈島のキョン!とか、ああいうのね)
ま、一見「吉本新喜劇の漫画版」と言えそうなもんなんだけど、どうも、何というか、そういうんじゃないな、と。何がどうかはわからないんだけど、これは赤塚不二夫から始まった純粋ギャグ漫画とは別系統なんじゃないかと、ね。

そうしたモヤモヤがアタシの中で氷解したのは「中春こまわり君」を読んだ時でした。
「中春こまわり君」はたしかに「その後のがきデカの世界」ではあるのですが、大阪的ゴリ押しギャグはかなり控えめで、というかギャグ自体が少ない。
何より驚いたのが、そこに展開されていた物語がまぎれもない純文学だったからです。
何をもって純文学と言い切るかはいろいろあるし、そんな論争に参加する気はさらさらないんだけど、それでも「中春こまわり君」が芥川賞か直木賞かどっちにノミネートされるか、と言えば、もう文句なしに芥川賞だと言える。

一応は「がきデカ」の世界と地続きなので突飛なギャグも皆無ではないけど、これは断じてエンターテイメントではない。
それがわかってから「がきデカ」本編を読むと、実はこっちもほのかにですが純文学の香りがする。こまわり君の強烈かつ下品なギャグや西城くんの「上方漫才そのまま」のツッコミに目を奪われるけど、骨格となるストーリーはオーソドックスで、しかしいわゆる「ベタ」とも違う。というか心の機微から紡ぎ出された、みたいなストーリーに思えてくるんです。

さらにそう思ってもう一度「中春こまわり君」を読むと、もう純文学を超えて、これは枯山水の世界なんじゃないかとさえ思えてくるんですよ。
栃の光(犬です念のため)が人間の女性と結婚してようが、犬と人間のハーフの子供がいようが、これもギャグというよりは抽象絵画的というか心象描写なんじゃないかと。
山上たつひこの自伝に「(当時「マカロニほうれん荘」を大ヒットさせていた)鴨川つばめに強烈な嫉妬心を抱いていた」というようなことが書いてありますが、こういっちゃナンだけど、「マカロニほうれん荘」は純粋ギャグ漫画なんですよ。つまり「ギャグ入り純文学漫画」の「がきデカ」とはジャンルが違う。

となるとまた別の見方も出てくる。本編でこまわり君は何かあるとすぐタマキンと称する陰茎と睾丸を露出させ、それに留まらず陰茎を勃起までさせるんだけど、たしかに小学生であるというエクスキュースがあるとはいえ、あれはギャグというよりは一種のエロスなんじゃないかね。
純文学とエロスは相性がいいし、もっと言えば純文学的エロスは少年誌との相性もいい。純文学的エロスなら性行為まで至らなくてもエロスとして成立するんだから。
「中春こまわり君」が大人の世界の話なのに極端にエロス要素がないのは、むしろ少年誌での連載ではないからではないか、と穿った見方まで出来てしまうっつー。

ま、さすがに深読みがすぎると自分でも思いますが、でもそんな深読みが出来る「ギャグが売りの漫画」なんか他にないとも思うわけで、それはそれでものすごいことだと思うんだけどねぇ。







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