ハットボンボンズに迫りたい
FirstUPDATE2018.4.23
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 えと、念のためタイトルに言及しておきますが、「迫る!」ではなく「迫りたい」だからね。もちろんそのココロは「迫りたい」けど「迫れない」ってことになるわけで。
 その辺を覚悟の上でお読みください。

こう見てくると、太平洋戦争前の正統派コミック・バンド<ハット・ボンボンズ>はさておき、<フランキー堺とシティ・スリッカーズ>→<ハナ肇とクレイジー・キャッツ>という流れ(人脈を含めて)がはっきりするだろう。


 これは小林信彦著「喜劇人に花束を」からの引用ですが、ほとんどのクレージーファンはこの本を読んで初めて「ハットボンボンズ」という存在を認識したのではないでしょうか。
 しかし、先の「喜劇人に花束を」でハットボンボンズについて触れているのは、この一文が「すべて」で、ということはつまり「太平洋戦争前の正統派コミック・バンド」ということ以外何もわからない、ということになります。
 しかして、では他の書籍をあたったところでハットボンボンズについての記述があるものは皆無に近い。どんな活動をしていたのか、そしてどういったメンバーがいたのかさえ調べるのが困難なのです。
 しかし、ハットボンボンズに触れた貴重な書籍があります。それが瀬川昌久著「ジャズで踊って」。
 この本には極めて希少なハットボンボンズの写真まで収められており、今ではおおやけで見られる唯一の彼らの姿ということになるわけで。(ただし復刻版では割愛されている)

 今回は「ジャズで踊って」の著者である瀬川昌久氏に直接話をお伺いした時のことを書きます。
 あらためて瀬川昌久氏の説明を。
 瀬川昌久氏は1924年生まれ。ということは御歳94歳。若い頃からジャズにハマり、その後ジャズ評論家としての活動を始めるのですが、とくに氏の原体験となった戦前期における日本のジャズシーンを研究されたことは、瀬川昌久氏より前の世代のジャズ評論家にあまりなかったことでした。
 実弟の瀬川昌治氏(映画監督。谷啓主演「図々しい奴」正続編や「競馬必勝法」シリーズで監督をつとめた)は一昨年逝去されましたが、昌久氏は矍鑠としておられ、いまだ記憶も明晰です。
 完全なインタビューではないので「覚え書き」になっていることをご容赦ください。

-ハットボンボンズの実演をご覧になられたことがあるそうですが
 瀬川(以下略)「あります。たしか7、8人の編成だったと思いますが、とても面白かった」

-どういったステージだったのでしょうか
「もちろん楽器を持って演奏するのがメインですが、楽器を手から離して今でいうコントのようなこともやっていましたし、芝居にも参加していました」

-どうしてハットボンボンズは後々語られることがないのでしょうか
「レコードや映画を残していないからです。確認出来る限り、レコードは二枚しか吹き込んでいません。しかもそのうち一枚は発売禁止になり店頭には並んでいないのです。さらに世に出た唯一のレコードも、発売された記録はあるのですが現在までに発見されていません」

-ということはハットボンボンズの演奏を録音の形でも聴くことは、今の段階では不可能だと
「そういうことになります。SPレコードの蒐集家のみなさんが必死で探しておられるのですが残念ながら」

-映画は
「新興キネマ(松竹の傍系会社。のちに大映に吸収)で「金比羅舟々」という映画に出演しているのが確認されており、スチール写真は現存していますが、フィルムが発見されていない。つまりこちらもほぼ観るのが不可能ということです」

 何と、彼らの演奏すら聴けないという状況でした。これでは再評価どころか研究すら不可能です。
 瀬川昌久氏も「戦前の主だったSPレコードはマイナーレーベルのものも含めてほぼCDに復刻出来た。残すはハットボンボンズの一曲のみ」と言い切られるくらいですから、おそらく日本中のSPレコードの蒐集家が血眼になって探しているのでしょうが、発見出来ないものはどうしようもないわけで。
 (補足・2020年になってハットボンボンズのレコードがYouTubeにアップされました。このことについては今後別エントリで書いていきます)

 メンバーもよくわからないことが多く、ネット情報のみで原典をあたっていないことを承知で書けば、かつてエノケン一座に所属した森健二がハットボンボンズに在籍したらしい。
 森健二はエノケン主演第1作の「エノケンの青春酔虎伝」に主人公エノモト(エノケン)の後輩、モリ役で出演しており、ハットボンボンズを結成する前の姿を観ることが出来ます。ま、楽器演奏シーンどころか見せ場もほとんどありませんが。

 とにかく現時点でわかっていることを書いておきます。
・バンマス(リーダー)はトランペッターの関沢幸吉(戦前は福井姓で活動したという)
・年ははっきりしないが(おそらく1937~1938年頃)関沢は渡米し、帰国後「ハット・ポッポ」というバンドを結成して横浜フロリダというダンスホールで活動を開始する
・当時吉本と熾烈な芸人引き抜き合戦を繰り広げていた松竹傘下の新興演芸部が、関沢率いるハット・ポッポをスカウトし、この頃に「ハットボンボンズ」に改名
・ハットボンボンズの「ボンボン」は関西弁の「ぼんぼん」(良家のお坊ちゃん)からきている
・アメリカのシュニケル・フリッツというコミックバンド(詳細不明)を手本にして、ショーマンシップ溢れるステージを展開していたらしい
・楽器のミニチュアを作って演奏したり、楽器で空中戦を実況したり、「勧進帳」で義太夫ばりの演奏をしたり、クレージーの十八番だった金盥での叩き合いもすでにしていたらしい(ここのみ色川武大の著述による)
・解散の時期ははっきりしないが、関沢が徴兵されたりするうちに自然解散になったらしい
・戦後になって関沢は第二次ハットボンボンズを結成するが2年ほどで解散したという
・メンバーは全員源氏名(つまり芸名)をつけていた。関沢は「豊島園彦」、小嶺淳一(テナーサックス)が「日比谷公」、砂山義光(ピアノ)が「丸ノ内街男」、志津恒夫(ベース)が「浜美奈登」、渡辺章(バイオリン)が「銀武羅夫」、中島佐平次(ドラム)が「御里夢中」、といった具合(ここには森健二と思われる名前がない。もしかしたら戦後の第二次の方のメンバーだったかもしれない)

 こうしてみると7人編成だったり(楽器編成は違うけど)、コントをやったり映画に進出したりと、まさに「戦前版クレージーキャッツ」と言える存在だったことは間違いないでしょう。
 一番最初に言い訳がましく「迫りたいけど迫れない」と書いたのですが、正直この程度の基本情報すら、ネット上はおろか、紹介されている書籍もありません。(ちなみに瀬川昌久氏の著書でも記されていません)

 アタシとしても、せっかく基本的な情報を書いたのだから、これをさらに膨らませて(もちろん間違った情報を訂正しながら)、さらに調査を進められれば、と思っているのですが、本当はデータ的なことではなく、レコードという形でも実際の演奏を聴かなきゃ始まらないってのはわかっているのですが。

クレージーキャッツ以前の和製コミックバンドと言えば植木等や谷啓らも在席したシティースリッカーズが有名ですが、もうひとつ、戦前期に活躍した「ハットボンボンズ」なる謎の多いコミックバンドもあったわけで。そのハットボンボンズにかんしてわかる限り書いてみました。
その後、YouTubeにハットボンボンズの音源がアップされたので彼らの演奏を聴く機会を得ましたが、思ったよりも演奏がちゃんとしていたのはビックリでした。
フランキー堺は「バンドでコミックをやるなら音が良くなければならない」と言ってたと思いますが、実際、演奏に<笑い>を足そうとするなんて演奏力がないと不可能ですからね。




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