今一度、美空ひばりについて考える
FirstUPDATE2018.4.20
@Classic @古川ロッパ @サトウハチロー #音楽 #戦後 @戦前 単ページ 美空ひばり 歌唱力 クサい フレッド・アステア 育ちの良さ 入江たか子 実写版鉄腕アトム

 美空ひばりを否定的に語る時に紋切り型とまで言える言葉があります。それは「(歌は)上手いっちゃ、上手いんだけど」っつーね。
 
 そのココロが「上手いけど、それだけ」なのか「上手いけど、ハマれない」なのか、「上手いけど、だから何なんだ」なのか、そこは人によって違うんだろうけど、とりあえずは歌の上手さにかんしては誰もが認めているというか、もう認めざるを得ないレベルなのは間違いないでしょう。
 さて今回は昭和の大歌手として今でも名前が挙がる美空ひばりという人について書いていきたいのですが、おそらく美空ひばりほど<好き>か<嫌い>かで語られてきた人もいないと思う。
 もっとはっきり言えばその中間がないと言うか、しかも「ただたんに興味がないだけ」みたいな人も極端にいなかったと思うんです。
 もちろん今は違います。逝去してから30年以上が経っているわけで、さすがに「知らない」とか「興味がない」が大半のはずで、今も美空ひばりにたいして熱狂的なファンや毛虫のように毛嫌いしている人はマイノリティになった、とは思う。
 
 それでも、つまり今の人のマジョリティである「美空ひばりをよく知らない」人たちでさえ、「美空ひばりってメチャクチャ歌が上手かったんだよね」ってのは知ってる。ちゃんと聴いたこともないはずなのに、何故か知識として刷り込まれている。
 ただ実際、仮に晩年であってもリアルタイムでの美空ひばりを知らない人たちが美空ひばりの歌を聴いて、ああ、本当に上手いな、と思う可能性はわりと低いと思うんです。
 いや、しつこいけど、今の時代だろうが上手いのは上手いんですよ。そこに時代の変化は関係ない。
 ただこの人の上手さは「クサい」と紙一重の上手さなんですよ。テクニック的にはいくらでもクサ味を消した歌唱は出来るんだろうけど(言うまでもなく一切クサ味のない曲も残している)、大半の楽曲で積極的にクサ味を入れ込んできてる、みたいな。
 
 じゃあ、テメエはどう思うんだってなったら、聴くたびにやっぱ上手ぇよなぁと思うんだけど、それは一曲だけ聴いた時の話。何曲も続けてっつーかアルバム単位でまとめて聴くとモタれてくる。というか美空ひばりって一曲にすべてを詰め込んでくるというか、10曲聴いたら「10本分の映画を続けて観させられた」みたいな感覚に近いんです。つまりそれはそんだけクサいから。
 ただね、ここではっきりさせておきますが、クサいってのは悪いことではないのです本当は。
 今ではクサい=ダメみたいな風潮だけど、昔の新劇とか大衆演劇(剣劇含む)なんか、逆にクサくないとダメだったんです。さらっとした自然体の芝居の方がダメで、それでは観客の目を惹かない。
 歌舞伎なんかでも見得を切ったりするじゃないですか。あれとおんなじでね、かつてはクサい大芝居が出来ることがスターの条件ですらあったんです。
 
 歌も実は一緒なのです。
 作家の色川武大は、フレッド・アステアの<歌>について「ゴマカシ芸」という言葉を使っていますが、これはけして罵倒ではない。
 何が言いたいのかというと「上手い下手の問題ではない。しかしアステアの<歌>は本職の歌手の歌い方ではない」という意味なんです。
 言うまでもなく、アステアの本業はダンスです。
 しかし彼は踊るだけではなく歌うことも求められた。とくに映画の中では「ハリウッド流音楽劇」のルーティーンからはみ出さないことを求められた=劇中で軽くとはいえ何曲も歌うことが必要だったのです。
 アタシ個人の趣味としては、アステアの「軽い、余芸的な歌い方」は非常に好ましいのですが、アステアのようなアクのない、さらっと上手い人は「本職としての歌手」の歌い方じゃない、と見做されていたのです。
 
 アステアが映画で活躍したのは1930年代から1940年代にかけてですが、この時代「本職としての歌手は強いアクを用いて濃厚に歌う」のが当たり前で、これは欧米諸国に限らず日本でもまったく同じでした。
 それこそエノケンこと榎本健一などは、リズム感重視のヴォードヴィル的な歌唱が理解されず、その悪声も相まって「エノケンは歌が下手」という評価まであったと言います。
 この時代に歌で評価されたければ、歌舞伎で言う<見栄>に相当するレベルのクサさが求められたのです。
 そういう意味では美空ひばりは旧時代の歌手なのです。生まれた年を考えるなら旧時代で当たり前なのですが、時代を超えて評価しようとした時にどうしても今の時代ではダメな象徴みたいな「クサい歌唱」に違和感が出てしまって、「上手い」で止まらずに、上手い「けど」が付いてしまうというか。
 
 本当はね、巧拙で芸を評価しちゃいけないのです。巧拙は売れるための手段であって目的ではないし、巧拙を持ち出した途端に過去の芸能の評価が出来なくなってしまうんです。んなもん、今の人が今の時代に則した歌唱法なのは当たり前。それは歌に限らず何にでも当てはまる話なわけで。
 だから今回、歌の巧拙という視点は外す。でないと水掛論にしかならないから。
 では如何なる箇所を評価するのか、ですが、ここでもう一度色川武大にご登場願いたい。
 彼が当時の人の感覚を書いた面白い文章があります。
 

しかし好き嫌いは別として、抜群の存在だったのは美空ひばりであろう。たかが少女歌手というなかれ。戦前はレコード歌手というものの地位が低く、艶歌師に毛の生えたものという程度にしか見られなかったが、戦後は役者の地位を凌駕して、すっかり芸能人の代表になってしまった。(中略)ひばりは(中略)本格的なスタアになったが(中略)庶民にも出世の余地がある、といってボクの母親は拍手した。
(色川武大著「戦後史グラフィティ」より)

 
 当時の様々な文献を読む限り、美空ひばりは最初から「カネのニオイのする」存在だったことは間違いないと思う。
 でもそれらも、ネガティヴに捉えられるどころか、むしろ讃えられることでさえあった。
 歌が上手いだけの少女が、その歌唱力一本で成り上がっていく過程に大衆は喝采を送った。つまりは「育ちが良くない、教養がない」、「さほど見栄えが良いわけでもない」、「笠置シズ子のモノマネでしかない」といった、普通ならマイナスになるようなことでさえ、戦後混乱期を背景にした「時代という強烈なバイアス」がプラスに転化させていった。
 もちろん時代背景を見越しての戦略もあったんでしょうが、この「クサい」サクセスストーリーに大衆は熱狂したのも事実なわけでね。
 
 話は変わるようですが、戦後になって、戦時中よりもさらに食糧難になった、というのは当時の文献からも読み取れます。
 終戦直後、片岡仁左衛門一家殺人事件なんて事件がありましたが、この事件がどれほど大衆から同情されたかは甚だ疑わしい。
 言うまでもありませんが、片岡仁左衛門と言えば歌舞伎の名家ですが、この時代=終戦直後に限って言えば名門とか名家は、むしろ疎んじられる存在であった、とさえ言える。
 そんな名門とか名家なんかより、ゼニを持ってる方が、ゼニを稼ぐ手段を持ってるヤツがエラい、と言う風潮が蔓延っていたんです。
 これは戦前と一番価値観が変わったところで、極端なことを言えばどんな汚い手を使ってようが、犯罪スレスレであろうが関係ない。とにかくゼニを稼ぐ手段がある人間こそが羨望の対象になったのです。
 
 こんな時代には「育ちの良さアピール」などマイナスにしかならない。
 戦後になって極端なほど人気が落ちた芸能人というと古川ロッパと入江たか子でしょう。
 そもそも彼らのような超がつく良家の子息が芸能界に入る、と言うのは当時の常識からすればあり得ないことで、芸能界のステータスを上げることへの貢献は絶対あったと思う。
 戦前時までは、そんな彼らに向けられた眼差しは、羨望以外の何物でもなかった。とくに抜群の美貌を兼ね備えていた入江たか子は「とても手が届かない高嶺の花」として存在感を発揮していたのです。
 ところが戦争が終わって時代が変わると、彼らへ向けられた視線は羨望から目障りな存在に変わった。
 古川ロッパのことは今回割愛しますが(ココに書いたので)、戦後の入江たか子もなかなかに悲惨で、まだ化け猫女優として脚光を浴びたことなどマシな方でして、珍作と名高い実写版「鉄腕アトム」にまで出演しているのは悲しい。
 ただ入江たか子は「椿三十郎」で奇跡のカムバックというイメージになったので古川ロッパよりはマシかもしれませんがね。
 
 ここで再び美空ひばりの話に戻します。
 少なくとも1960年代までの美空ひばりは「その時代その時代の大衆が感情移入しやすい」キャラクター作りに長けていた。どれだけ芸能界での地位が絶対的なものになっても「所詮は、か弱き女性」というキャラクターを守り続けた。
 だから笠置シズ子とモメた時も世間は美空ひばりの味方になったし、サトウハチローが美空ひばり批判の文章を書いた時もハチローが悪者になる形で終結している。
 どころか、早くから有名だった田岡一雄との関係さえもマイナスにならない。
 正直、これほどまでに時代を読み切って上手く立ち回った芸能人は他に知りません。そこは本当に美空ひばりは突出していたと思う。
 
 また美空ひばりは、徒花で終わらせない戦略も長けていたと思う。
 人気を持続させるために必要なのは「華」です。それはスターなんだから当然のことなのですが、「華」を得るために機を見るに敏に徹した。会社を跨いで映画に出演し、ジャズが流行るとなったらてらいもなくジャズソングを吹き込む。ロカビリーが流行ればロカビリー、暗い歌が求められるとなれば暗い歌、これはだいぶ後だけど、グループサウンズが流行すればそれにさえ乗っかる。
 この徹底した姿勢のおかげで唯一無二の「華」を手に入れることが出来たんです。
 こうした「華」と「時代を読む感覚」の力で若くして別格の存在になった。もはやヒットチャートがどうこうとか関係がない、仮に一定期間ヒット曲と呼べるような曲がなかったとしても「日本を代表する歌手=美空ひばり」と言える存在にまでなり仰たわけで。
 
 もちろんそこに至れたのは芸の力があったからこそです。
 歌の巧拙は考慮しない、と書いたけど、好き嫌いは別にしても誰もが認める歌唱力がある。だからこそ「日本を代表する歌手=美空ひばり」と言われても、嫌いな人でさえ、上手い「んだから」納得せざるを得ないっつーか。

美空ひばりなんか「亡くなったことで聖域化した」典型で、生前は強烈な援護派と強烈な罵倒派がせめぎ合っていたのに、亡くなって以降は何だか「批判しちゃいけない」存在になってしまいました。
小津安二郎や原節子なんかも聖域化してるけど、この人らは生前からその兆候はあった。でも美空ひばりは違う。もう、聖域化の理由は「亡くなったから」しかないもん。
ただね、強引な聖域化というか聖人君子化は逆に美空ひばりを矮小化しているような気もする。石原裕次郎とかもだけど、やりすぎて逆に人間味が消失していってるような気がするんですよ。
と言うか「やれることは良くないことも含めて全部やって、何がなんでも這い上がろうとした<天才>」って方がより人間味が出て美空ひばりが魅力的になると思うのですがどうでしょうか。




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