今一度、パクリについて考える
FirstUPDATE2018.4.7
@Scribble #Scribble2018 #クリエイティブ #UI/UX 単ページ パクリ インスパイア スティーブ・ジョブズ GUI TheMusicGoesRoundandRound トミー・ドーシー

これ、やりたいと思ってたんですよ。というのも、どうもアタシの書き方が下手くそなせいか誤解されやすいんで。ま、その辺を含めてね、キチンと整理して、端から端まで「パクリ」についてしっかり書き記しておいた方がいいのかな、と。

いきなり根本的な話から始めますが、まず「パクリ」という言葉自体があまりにも幅がありすぎるんですよ。
パクリ=パクる=盗む、ということですが、「盗む」すべてが悪いということかというと、もちろんそうではありません。
「(師匠から)技術を盗む」とも言うわけで、これも師匠「だから」盗んでもよい、つまり「家のカネを盗んでもドロボウにはならない」みたいな話ではないわけです。

別に師匠ではなくても、自分より技術が長けた人からワザを盗む。これが悪いことのわけがない。
かといってワザなんて形のないものだから成立する、形あるものを盗んだら犯罪になるということでもない。それこそ音楽なんか形はないですからね。当然「譜面を盗んだ」「CDを盗んだ」とも意味がまるで違う。
一般に盗作と言われるものは、形のないものを盗んだ場合にたいして用いられます。
しかし「形がないもの」にたいして、どこからが盗んだことになるのか、線引きが非常に難しいのです。
さらにインスパイアなんていうややこしい問題もある。

たとえばAという作者がつくったAAという作品を、AAにインスパイアを受けたBという作者がBBという作品をつくり、AがBを訴えた。これなら筋は通っている。しかしAAという作品から、BはBBを、CはCCをつくったが発表はBBの方が先だった場合、話がややこしい(2009年5月3日更新「パクリとインスパイア」


ま、わかりやすい例で言えば、ゼロックスが開発したAltoのUIをヒントに、スティーブ・ジョブズがMac(Lisa)を作り、ビル・ゲイツがWindowsを作った、みたいな話です。(←この話はいろいろ異説があるけど、まァいいでショ)
この辺のことを一切合切まとめて解決しようするのは不可能であり、厳密にやれば良いってもんじゃないのは当然として、何でもかんでも「なあなあ」で済ませた方が良いわけでもありません。
アタシはまずやらなきゃいけないと思うのは、パクリという言葉を止めることからだと思う。

さっきも書いたようにパクリでは幅が広すぎる。そこで「デッドコピー」「インスパイア」「オマージュ・パロディ・引用」に分割した方が良いのではないかと。その方が線が引きやすくなるからね。
この中で文句なしにダメなのがデッドコピーです。アタシはパクリには寛容な姿勢を取っているけど、デッドコピーにたいしては論外だと思っている。もちろん「デッドコピー逃れを施しただけのコピー」にも毅然とした態度が必要だと思う。
問題は「インスパイア」と「オマージュ・パロディ・引用」の違いです。

実は、まァ他人が知ることは難しいんだけど、少なくとも製作者の脳内的にはこのふたつは明確なラインがあります。
前者が「原型にたいして意識的であるかどうかは問われない」ものだとするなら、後者ははっきり「原型を意識しながら製作した」と言えるからです。
オマージュ・パロディ・引用は原型の存在を意識してないと製作不可能なものだからです。そしてこれはけして制限されてはならないと思う。
「無許可で無料で」となるからややこしいんであって、はっきりと原型を意識しながら製作したのであれば、まァ許可はともかく著作権料の何割かは原著作者に分割すべきだと。その方がもっとオマージュもパロディも引用もやりやすくなる。

となると一番難しいのは「インスパイア」です。
インスパイアというのは必ずしも意識的であるとは限らない。先に例として挙げたAltoの話なんかは意識的な例だけど、脳の隅っこにあったことを拡大させていった場合、つまり潜在意識レベルでしかない状態で原型に似たものを作ってしまった、なんてことは往々にしてあるわけです。
アタシは何度も王道の重要性を書いてるけど、王道のストーリー展開なんか作家と呼ばれる人なら大抵脳内に刻まれているものだと思うし、そうなってしまうとパクったとかという問題とは関係がなさすぎるっつーね。

かつてアタシはレゲエなぞをやっておりました。これ、正確な使い方なのか知らないんだけど、レゲエにはワンウェイという考え方があって、トラックは共有財産だ、みたいなのがあるんです。
だから誰それが作ったトラックに乗せて歌う、なんて普通のことだし、それについてとやかく言う風潮は一切ありません。
ではオリジナルであることは尊重されないのか、というと、もちろんそんなことはない。仮に同一のトラックで歌っても、歌詞もリズムの取り方も歌唱法もバラバラで、そこでオリジナリティを構築していく。そしてそのオリジナリティはその人が持ってる本質みたいなものなので、他人は真似しようがない、という。

ジャズもそうなんだけど、演奏だけを取り出してもひとつとして同じものはない、という考え方がある。アタシは「The Music Goes Round and Round」という曲が好きで「The Music Goes Round and Round」だけのプレイリストを作ってるくらいなんだけど、本当に、全部、別物なんです。それこそトミー・ドーシーから始まって、日本ならエノケンとか岸井明とかディック・ミネとかね。実にいろんな人が歌ってるけど、ただ単にアレンジが違う、というようなものではなく、ひとつも「似た傾向」のものさえ、ない。どれも本当に個性に溢れている。

アタシは結局そういうことだと思うんです。オリジナリティ=個性なんだから、他人は真似ようとして真似られるものではないはずなんです。
歌詞だったり物語だったりギャグだったり音符の置き方はいくらでも真似られるけど、個性は真似られない。いくら真似てもホンモノとモノマネ芸人くらいの違いは出てくる。
もし他人が容易に真似られるようなら、それは原型となったものにたいした個性がなかったんじゃないの、とも思ってしまう。

デッドコピーは徹底的に糾弾すべきだけど、それ以外は許容すべきなんじゃないかなぁ。だって個性=オリジナリティとか、裁判所がくだすことでは絶対にないもん。
ただし条件として、似た先行例があった場合は「オマージュです」とか「インスパイアされたかもしれない」と製作者は素直に認めるべきです。んで然るべき著作者料を原著作者に支払う。ま、すべての、となるとキリがないので、製作者が「もっとも強く影響を受けた」と思えるひとりに限って、とかにしなきゃダメだけど。

これだけで十分だと思うんだけどね。







Copyright © 2003 yabunira. All rights reserved.