アタシが生まれて初めてプロ野球を観に行ったのは1976年8月24日のことです。
どうして正確な日付がわかるのか、それはアタシの記憶力が非常に優れているから、なわけがない。というか記憶力の悪さには定評があるくらいで。
ま、はっきり言えば検索しただけの話です。当然ある程度ヒントがないと検索のしようもないのですが、ただひとつ、とある記録がこの日の試合で達成されたことを憶えていたために調べることが出来た。
具体的には、西宮球場で行われた阪急VS南海戦で、当時南海の監督兼正捕手兼4番打者だった野村克也が5000塁打を記録した試合なのです。
そう、アタシが生まれて初めて観戦したのは「甲子園球場での阪神戦」ではなく「西宮球場での阪急戦」だったんですよね。
「甲子園球場での阪神戦」を初めて観戦したのはそれからひと月以上経った10月3日。対戦相手は広島東洋カープでした。
この年の阪神は巨人と壮絶なデッドヒートを繰り広げており、この日のダブルヘッダーの結果如何でさらに巨人に肉薄出来るか、それとも厳しい立場に立たされるかの瀬戸際だったんです。
というか、もしかしたら<ダブルヘッダー>の説明が必要な時代かもしれない。
ま、簡単に言えば1日に2試合、同じカードで行われることをダブルヘッダーというのですが、1960年代までは日曜日にはたいていダブルヘッダーが組まれていました。
1980年代に入って以降激減し、1990年代にはほぼ消滅してしまいますが、ま、選手の疲労を考えるなら当然でしょう。
しかし1970年代にはまだダブルヘッダーが残存していた。アタシは1日に2試合も観れる、というお得感もあってこの試合を観に行ったんですな。
たぶんこの頃は入れ替え制じゃなかった。チケットは1試合だけよりも高かったと思うけど(何しろ小学校低学年なので=自分でチケットを買ったわけではないので、いくらだったか知る由もない)、とにかく「2試合とも観れた」ことだけはたしかです。
この試合はアタシにとっても本当に記念すべき試合になった。というかこの試合を観戦したことで阪神タイガース、そして田淵幸一に深い情愛を持つようになったんだから。
ダブルヘッダーの第一試合、阪神の先発は江本孟紀、広島は佐伯和司でした。
阪神は先制こそしますが逆転され、9回表を終わって2-4。しかし9回ウラに阪神は反撃に転じ1点を返した。これで3-4。
ランナーふたりを置いて4番の田淵に打席が回ってきた。ここで広島ベンチが動いて、この年エースに成長した池谷公二郎を投入します。
アタシは手に持った小旗を振りながら、声を張り上げた。
「たァぶゥちィ!たァぶゥちィ!たァぶゥちィ!たァぶゥちィ!」
田淵の振り抜いたバットは池谷の速球を捉え、打球は高々とレフトに上がった。広島のレフトを守っていた岡義朗はラッキーゾーンの金網によじ登りますが、打球はそのはるか上を越えていった。
逆転サヨナラ3ラン!
ま、残念ながら第二試合には負けて優勝は遠のいたんだけど、第一試合での田淵の逆転サヨナラ3ランを「この眼で」観たことで、アタシの阪神贔屓、田淵贔屓が決定的になったのです。
・・・とまあ、長々と「アタシがはじめてプロ野球を観戦した日」のことを書いてきたのですが、全体の流れは、実はそこまで重要ではありません。
アタシが刮目して欲しいのはこの箇所です。
アタシは手に持った小旗を振りながら、声を張り上げた。
「たァぶゥちィ!たァぶゥちィ!たァぶゥちィ!たァぶゥちィ!」
この応援スタイルこそ、1976年の時点で、きわめて平均的なものだったんです。
小旗、と言われてもピンとこないかもしれませんが、阪神の小旗ならば阪神タイガースの球団旗を縮小したもので、手元に現物がないので何とも言えないけど、たぶんB4くらいの大きさだったんじゃないかな。それにストロー状の棒がくっついていて、そこを握って振る、という。
「阪神タイガースの正体」(井上章一著)によると、小旗を振りながらの応援スタイルを始めたのは中村鋭一だったらしい。彼がパーソナリティをつとめていた「おはようパーソナリティ」というラジオ番組の企画で阪神応援ツアー(ツアー、じゃないな。とにかく中村鋭一本人とリスナーが甲子園で一緒に応援するというイベント)の時に小旗を用意したことで、やがてそれが浸透した、と言うことのようです。
そしてもうひとつ、「タブチ」コールです。
こちらも起源がはっきりしている。広島の応援団が始めた「コージ(山本浩二)」コールが最初で、それを阪神(の応援団)が取り入れて「タブチ」コールが始まった。
広島の応援団はのちに他球団に広がりスタンダード化するような応援スタイルをいくつも作り出しています。
もちろん他球団に浸透しなかったのもあって、スクワットとかはダメだったけど、たとえばジェット風船飛ばしも広島が最初に始めた。あれ、まるで阪神の応援団が始めたみたいな感じになってるけど起源は広島です。つか阪神の応援団が始めたものとか、あとひとりコールくらいじゃないの?
それは、まァいい。もうひとつ、広島の応援団が始めたものとして「トランペットを使った応援」ってのがあります。
しかしですな、これは厳密には広島が発祥とは言い難い。たしかに「プロ野球の応援でコールとセット」で、となると広島の発祥なんだけど、どうにも注釈が多くなってしまう。
つまり、コールとセットではないトランペットを使った応援スタイルはプロ野球黎明期(当時の言い方なら職業野球)からあるし、プロ野球に限定しないなら先行例はいくらでも見つかります。
それでも、それを取り入れたのはコロンブスの卵に近い発想だったと思うし、すぐに他球団にも波及しました。
我が阪神タイガースで言えば、たしか1980年頃からトランペットを使った応援スタイルが始まったように記憶しています。
最初は、現在では「ヒッティングマーチ1番」と呼び習わされているもの一曲だけで、しばらくして「ヒッティングマーチ2番」が出来た。
まだこの頃は選手個別のヒッティングマーチはなく、この2曲だけで回していた、そんな時代もあったのです。
そのうち個別ヒッティングマーチも作られだした。最初は掛布用(最初期は有名な♪こッこッまッでッ飛、ば、せ~ではなく、「GO!GO!掛布」をアレンジしたものだったと思う)、藤田平用(♪ たァいらァ たァいらァ たァいら~)くらいだったのが、そのうち岡田用(コンバットマーチのアレンジ)、真弓用(ミッキーマウスマーチのアレンジ)も作られた。ま、既存曲をトランペット演奏用にアレンジしたものを「作られた」ってのもナンだけどさ。
最初期に作られたヒッティングマーチの1番と2番も、頻度こそ減りましたが継続して使われることになった。
ヒッティングマーチ1番は投手用のヒッティングマーチとして生き残り、ヒッティングマーチ2番は今でも固有ヒッティングマーチのない(まだ実績のない若手など)選手用として生き残っている。
もう一度書きますが、ヒッティングマーチの1番と2番が阪神応援団によって演奏され出したのは1980年頃です。もう40年ほど前と言うことになるわけで、アタシとしても40年もずっと聴いてるんだから耳馴染みも耳馴染みになっています。
さて、ここで突然話が変わります。
かつて「掛け合い漫唱」というものがありました。そう、掛け合い漫「才」ではなく掛け合い漫「唱」。読んで字の如く、言葉だけではなく「歌で」掛け合いをするのです。
とにかく昭和初期、エノケンこと榎本健一と二村定一は掛け合い漫唱の名手と言われていました。ギャグを挟みながら、まるで喋る如く交互に歌う。このモダンなスタイルは当時大ウケしたんです。
とか書いてますが、当然リアルタイムで見たことはありません。ただエノケンが主演した映画でも掛け合い漫唱のシーンが挿入されているので、まったく見たことがないわけではないのですが。
とくに「續・エノケンの千万長者」(1936年、P.C.L.)における「楽器は唄ふ」(←タイトル不詳のオリジナル曲なので勝手に命名。この曲についてジャズ評論家の瀬川昌久氏から「おそらく「The music goes 'round and around」からインスパイアされたものではないか」という示唆をしていただきました)での掛け合い漫唱は後世に残すべき<芸>です。
この掛け合い漫唱という<芸>は今では継承者もなく、すっかり廃れてしまいましたが、1960年代までは生き残っていたとおぼしく、たとえば「てなもんや三度笠」の劇中で藤田まことと白木みのるが見事としか言いようがない掛け合い漫唱を披露しています。
継承者が少なかったのは難易度の問題もあるんだろうけど、ジャズ系以外の楽曲ってあんまり「掛け合い」ってのが向いてないんだよね。
ま、ヒップホップにおけるラップやレゲエにおけるDJスタイル、とくに<笑い>の要素が混入したものは、きわめて現代的な掛け合い漫唱のような気がしますが。
そういう意味では、もしかしたら「掛け合い漫唱は絶滅したのではなく発展しすぎた」と言えるのかもしれないね。
話が逸れましたが、エノケンと二村定一の<芸>は映画だけでなくレコードにも(つまり録音という形で)残されているのですが、その中の一枚に「民謡六大学」というものがあります。
「民謡六大学」は元はレビュウ劇ですが、作者はモダンな喜劇の第一人者といえる菊谷栄です。レコード版は舞台を大幅に割愛したものなんだけど、とにかく実に上手く六大学の特徴を歌になぞらえているのです。
それはいい。問題はこの「民謡六大学」の終わり方です。この曲のエンディングを聴いて、マジでのけ反った。
「ヒ、ヒッティングマーチ2番・・・!!!」
そうです。アタシが40年もの間耳馴染んだ、あのメロディが、今から80年以上も前に発売されたレコードの最後に入っていたのです。
まず基本的な話として、エノケン&二村定一の「民謡六大学」は当時隆盛を誇っていた東京六大学野球になぞらえています。だから民謡がテーマでありながら野球に関係した音が出てくるのは妥当です。
ヒッティングマーチ2番の原曲は立教大学の応援歌で、名称は「セントポールマーチ」。阪神の応援団がこれを元にしたのは間違いありません。となると「民謡六大学」に入ってるのも当然だし、早稲田大学のコンバットマーチなど大学野球にルーツを持つトランペット応援となれば、阪神の応援に流用されるのも、これまた当然といえる。
しかし、込み入った話をするなら「セントポールマーチ」にはさらに原曲がある。それが「Our boys will shine tonight」です。
この楽曲がアメリカで生まれたことはわかっていますが、何しろ南北戦争の頃にはすでにあったと言われ、作曲者は不詳です。要はメチャクチャ古い曲ということです。
しかしこれ、考えてみるとものすごい話ですよ。
かつては、おそらくカーボーイが口ずさんでいたであろう曲、それが立教大学の応援歌となり、さらにエノケン&二村定一の狂言に採用され、今では甲子園に行けば五万人近い人がこの歌を絶叫している。
誰だかわかんないけど、作曲者もまさかこんなことになるとは夢にも思わなかったでしょうね。
ちなみにヒッティングマーチ2番と「Our boys will shine tonight」は聴き比べると結構違うのですが、1980年頃、トランペット応援が始まった当初はかなり「Our boys will shine tonight」に近い感じの演奏でした。
それから、正確にいつからかは憶えてないのですが、おそらく1982、3年あたりからトランペットに合わせて「かっとばせェ○○!」なんて歌詞がついて歌うようになってしまった。
さらに、いつの間にやら「アイヤ!」なんて合いの手が入るようになってね。
いやはや、何とも日本的な発展の仕方ですが、つかそもそも「アイヤ!」って何だよ。単独で、というかヒッティングマーチ2番以外で「アイヤ!」なんて合いの手とか聴いたことないよ。
アタシは残念ながらアメリカ人の友人はいないけど、もし出来たら是非とも「Our boys will shine tonight」を歌って欲しい。んで「アイヤ!」と合いの手を入れたい。
いやもう、そのためだけにアメリカ人の友人を作っても良いと思ってるくらいで。
元エントリはどちらかというと音楽ネタだったのですが、長文化させるにあたり野球ネタを大幅増補して完全に野球関連エントリにしました。 面白いとは思うんだけど、知識の偏りが酷すぎてついてこれる人がどれだけいるのか不安です。ついてこれましたか? |
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