-草木も眠る丑三つ時
-朽ち果てた天井
-トタンを張り巡らせただけの壁
いくら霊感が弱い人間でも、これだけ条件が揃ってしまえば見えるはずのないものが見えてしまうのもやむを得ないのかもしれない。
もちろん真夜中まで起きていたわけではない。日付が変わる直前には眠りについていたはずである。
よほどの悪寒が走ったのだろう。パッと、目が覚めた。仰向けで寝ていたのだから、当然目に映るのは暗がり越しの天井のはずである。事実、最初は気味の悪い天井が瞳に映っていた。
しかし徐々に、天地が逆転した。上を見上げているはずが、いつの間にか上から下を覗く光景に変わっていった。
どこかはわからない。初めて見る景色だ。ただ、何となく、そこがラブホテルである、というのは察することが出来た。
ベッドの上で男女がまぐわっている。男は、これは背中越しなので判別不明だ。いや仮に正面からだとしてもまったく存じ得ない人間であるのは間違いない。
問題は女の方である。これはよく知った人物である。いや知ってるなんてもんじゃない。その女は紛れもなく遠距離恋愛中のカノジョなのだから。
これは夢、なのか?夢にしてはやけにはっきりしているし、実存感がありすぎる。
たしかに眠りにつく前、カノジョに電話したが応答がなかった。電話に出ない理由、それは今しがた見たように、オトコと逢瀬をし、そしてラブホテルでシケこんでいたからなのか?
まさか。あり得ない。ケータイを手に取る。そして再びカノジョに電話した。だがやはり出ない。
朝になった。発信履歴には真夜中にカノジョにかけたことがはっきり記録されていた。ということは、あれは夢ではなかったのだ。しかし夢でないとするなら、いったい何だというのだ!
・・・あーっ!疲れた!!小説の真似事で書こうと思ったけど、これはしんどすぎる。だいたいアタシは小説など読まない人間なのです。そんな人間が小説っぽい文章など書けるわけがない。
ここからはフツーに書きます。
ま、小説<みたい>に書いたけど、これは間違いなく本当の出来事です。つまりノンフィクション。時代でいえば1990年代後半になりますか。
ついでに言えば、この夜に見た夢とも幻覚ともつかない光景、早い話が遠距離恋愛中のカノジョが浮気してたってのも本当だった。
まァね、浮気云々は、よくあること、で片付けられるとしても、こんな幻覚が見えたのを「よくあること」で片付けられたらたまらない。
アタシは本当に霊感が弱い人間なのです。そんなアタシが「事実と寸分狂いない」幻覚を見た。
正直に言えばアタシは死ぬと思った。極端に霊感の弱い者が突然<予知>幻覚が見えたってのは、もう死の前兆だとしか思えなかったわけで。
ざっくり遠距離恋愛中と書きましたが、当時アタシが住んでいたのは大阪です。小説紛いの中に登場したトタン張りの朽ちた天井ってのは大阪の私鉄の高架下の倉庫での出来事です。
一方、カノジョは福岡に在住していた。大阪と福岡なんだから立派に遠距離恋愛と言えると思うんだけど、いろいろあった末、もちろん一番大きかったのはこの浮気騒動、もとい幻覚騒動なのですが、アタシはこの騒動から約半年後に福岡に移住することになったのです。
しかしもう、出だしからして今書いたようなとんでもない事件があったわけで、福岡でのアタシは常に事件につきまとわれていた、と言っても過言ではない。
幻覚騒動のような極々私的なものから、マジモンの刑事事件まで、実に幅広く身近なところで起こったっつー。
福岡に移住したものの、取り立ててやりたいこともやるべきこともない。福岡って場所になったのもカノジョが住んでいた以外の理由はないしさ。
アタシにとって地方都市への居住は初めてだった。それまで神戸を皮切りに大阪とか東京とか湘南とか、大都市もしくはその近郊にしか住んだことがなかったので、地方都市、とくに福岡というフシギな街にたいして、かなりのカルチャーギャップがありました。
アタシを一番悩ませたのは「会話が成立しづらい」ことでした。
今までどこに住もうがそんなことはなかったのに、福岡に来てからとにかくまともに会話が出来ない。何というか、福岡の人って会話の<間>が独特で、変な<間>が出来たり、言葉が被ったりが頻発して上手く会話が出来ないのです。
ただでさえアタシは友達を作るのが苦手なタイプなのに、こんな感じで会話にさえ苦労するのだからますます友達など作ろうと思わなくなっていったのです。
基本的にアタシの相手をしてくれるのはカノジョだけです。しかしアタシがヒマでカノジョは忙しいなんてことも当然ある。そんな時はひとりで福岡で最大の繁華街である天神まで出かけた。
行く場所はいつも一緒。要するに電器屋巡りでして、これは高校以来の趣味なので欠かすことは出来ない。
とはいえ、こう言っては福岡の人に申し訳ないけど、所詮は地方都市です。電器屋なんていってもまともなのはベスト電器とビックカメラくらいしかない。
あ、今は知らないよ。あくまでアタシが在住していた1990年代後半の話ね。
とくに西鉄福岡駅からほど近いっつーか、西鉄の高架下に店舗を構えていたビックカメラには定期的に行ってた。高架下だからやけに細長い店舗でね。たしかに品揃えは大都市とは比べものにならないけど、それなりに気に入ってました。
え?福岡に来るまで高架下に住んでたから落ち着いたんだろって?そんなわけは、ないと思う、けどなぁ。
このビックカメラをずんずん奥に進んでいって、ドンツキにあるのがPC関連のパーツコーナーでした。これも今はどうか知らない。とにかく当時はそうだった。
そこに行くといつも気味が悪いとしか言いようがない変な音声が流れていたんです。もちろん「パソコンが安い!」みたいな宣伝でも、お馴染みの「♪ フッシギなフッシギないッけぶッくろ~」という例の歌でもない。
とにかくオッサンとおぼしき男性が怒声を上げている音声で、それをしつこくパソコンでリピート再生している。
もう一度書きます。時代は1990年代後半。場所は福岡。そしてビックカメラのパーツコーナーで流れていたのが「あんたみたいなのはね、クレーマーって言うんだよ!」という恫喝音声。
ここまで書けばもうおわかりでしょう。そう、たぶん初めてインターネットなんてものが表舞台に立った事件、つまりは「東芝クレーマー事件」ってヤツです。
さっき書いたうち「場所は福岡」ってのは関係なさそうですが、そうでもない。
東芝クレーマー事件をざっくり説明しておけば、東芝製ビデオデッキを購入した男性が「本来の性能が出ていない」と何度も東芝に修理を依頼し、ついには東芝の担当者がキレて例の恫喝に繋がった、という。
それだけなら時代は出ていないんだけど、この事件が突出したのは男性が担当者とのやりとりを録音し、自身のホームページでアップしたことで世間に広まったからです。
んでね、この男性が当該ビデオデッキを購入したのが福岡の地においてビックカメラの最大のライバルであろう、同じく天神に店舗を構えるベスト電器だったと。つまり男性がビデオデッキを買ったのはベスト電器福岡本店だったわけで。
それにしてもビックカメラもよーやるわ。ベスト電器を揶揄するつもりがあったかどうかはさておき、ビックカメラだって東芝の製品を取り扱っているんですよ。
ま、これも地方都市のユルさなのかもねぇ。で済ませてよいのだろうか。
アタシもさすがに毎日ビックカメラに行ってたわけではない。遊んで暮らすのも限界があるし。
たしか移住して半年ほど経った頃かな、アタシはとあるスチール写真の撮影会社でバイトを始めています。
言っておきますけど、アタシはカメラマンになりたいどころかカメラ自体への興味もまるでなかった。そんな人間がスチール撮影なんて、どう考えても出来るわけがない。
仮にS社としましょう。このS社、とにかく見事なほどの<いい加減>な会社で、たぶんアタシがかかわった企業の中でもトップクラスのいい加減さだった。だからこそ、ろくろく撮影も出来ないのにカメラマンとしてやれていたわけでね。
しかしS社で働き出したことは非常に意味があった。それは後に親友となるEという男と出会えたからです。
もちろんEは福岡に在住していたんだけど、何の偶然かアタシと同じ神戸の出身で、それどころか幼稚園まで同じだった。
神戸出身ってことだったら当然かもしれないけど、アタシと同じく阪神タイガースに心を寄せており、しかも映画とかドラマとか、そして何より<笑いのツボ>が非常に近かったのです。
これは仲良くなる前だけど、Eから別の業者を紹介してもらって、今度はビデオカメラマンとして働くことにもなった。もちろんビデオカメラもズブの素人だけど、こうなったらやるだけやってやれ、とね。同郷のよしみもあったし。
アタシをビデオカメラマンとして採用した会社、こっちはNG社とします。
んでこのNG社、これがまたS社に負けず劣らずの<いい加減>な会社でして。実際、かなり酷いことになったんだけど、それはまた後で。
とにかくアタシはS社とNG社を掛け持ちしていた。Eは最初はS社での仕事もしていたけど、いつしかほとんど入らなくなり、掛け持ちという感じではなかった。
もうひとり、アタシと同じく掛け持ちの人がいた。たしかふたつかみっつ年上だったと思うけど、とにかく面白みのない男でね、あんまり仲良くしたいタイプではなかったので遠巻きに見ていました。
この男(以下、YS)、いつしかS社でもNG社でも顔を見なくなった。ま、だからといって気にかけたこともなかったんだけど、S社の仕事に入った時に雑談としてバイト仲間に「そういや最近YSさん見ないね」と振ったんです。
するとこのバイト仲間、驚くべき言葉を発した。
「あれ?知らないんですか?こないだニュースステーションに出てましたよ」
まったく「はあぁぁぁあ!?」としか言いようがないと思いますが続けます。
NG社には女性も何人かいて、うちのひとりがEの知り合いでした。彼女はBとします。
ま、アタシはまったく好みではなかったし、何よりカノジョもいたので、当時の言葉で言えば「アウトオブ眼中」(これは1990年代前の流行語だったかな)でしたが、そんなに見栄えは悪くなかった。広義に言えば美人ってことになると思う。
だからってのも変だけど、YSはBをロックオンした。とはいえBからしたら迷惑なだけです。何しろYSは会話といい写真といい、何の面白みもない男だから。
電話で相談にも乗ったことがある。
「狙われているとかならいいんですけど、そうじゃないんです!もっと本能的に怖いものを感じるんです!」
アタシは一笑に付した。んなわけあるかい。YSはただつまらないだけで怖いとかそーゆーんじゃないだろ、と。
NG社にはもうひとり女性のカメラマンがいたんですが、今度はこの子がアタシに訴えてきた。
曰く「(YSに)ドライブに誘われて行ったら、途中で猛烈な眠気におそわれた。きっと知らない間に睡眠薬を飲まされたに違いない」と。
おいおい、今度は睡眠薬か。そんなことはもっとあり得ない。だいたい素人がどうやって睡眠薬を、と言いかけたところで、ふと妙なことを思い出したんです。
たしかS社の仕事で一緒になった時だったと思う。歳は向こうの方が上だけどS社としてはアタシの方が先輩になるので、気を遣ってYSに話しかけたことがありました。普段はどんな仕事をされているんですか、と。
「カメラが好きでここ(S社)に来たんだけど、それまではずっと薬剤師をやっていたんだよ」
!!!
ならば、YSは睡眠薬の入手手段も、取り扱いの知識もあったことになる!!
だからと言って決定的な証拠は何もない。NG社のふたりも具体的に何か、何かってのは性的なことだけど、をされたわけじゃないし。
それからしばらくして、ニュースステーションに出た云々の話を聞かされた。つまりはこういうことです。
YSは小学校の課外学習かなんかの撮影に仕事で行き、そこで女児に薬を使って眠らせて猥褻な行為を働いたと。そして逮捕され、薬剤師の免許を取り消されたというのです。
この免許取り消しは何十年ぶりかのことだったらしく、ニュースステーションのトップニュースになったと。
それにしても一番驚くべきなのはS社ですよ。
何と仮釈放になったYSを再び雇ったってんだから。人手不足かなんか知らないけど、これはもういい加減を超えてるわな。
しかしアタシは先ほど「NG社もS社に負けず劣らずのいい加減な会社」と書きました。こんなS社とタメを張れるNG社とはいったいどんな会社だったのか、Page2に続きます。