野村阪神を思い出す
FirstUPDATE2017.12.4
@Scribble #Scribble2017 #プロ野球2017年 #2000年代 単ページ 野村克也 野村沙知代 阪神タイガース イメージ 熟女ブーム 浅香光代 胡散臭い

大和のFA移籍やロザリオ獲得濃厚みたいなネタはあるのですが、関係なく昔話をば。だけれども「振り返る」でも「回顧する」でも「分析する」でもなく、あくまで「思い出す」程度の話です。

阪神タイガースに心を寄せる人間にとって、野村克也が監督だった1999~2001年は、トップクラスに辛い時代だったはずです。その前の第三次吉田政権よりも、前の前の鬼平政権よりも辛かったと思う。
アタシなんか、もう野球なんて興味なくなっていい、とすら思ったくらいだから。

(現注・ここの箇所は「星の去る音」というエントリに流用したので割愛します)

しかし最初はそうではなかった。
理由は、野村克也が監督に就任し、下馬評を覆し善戦していたからです。
純金のノムさん像が飛ぶように売れ、観客動員も増えた。成績も6月9日には遂に首位に躍り出たのです。

楽しい話はここまで。これ以降は書くのが苦痛なレベルです。
徐々に実力を発揮しだした阪神はズルズルと順位を落とし、気がつけば誰しもが予想した通りの最下位に相成りました。
翌年はとくに語ることもないまま、順位はもちろん最下位。しかし新庄を4番に固定、新庄自身も期待に応えて自己最高の成績をマークしますが、この年のオフ、あっさりメジャーへ行ってしまいました。

思えば、2001年のシーズン前ほど絶望感があった年もなかった。せっかく主軸に育ったはずの新庄がいなくなり、桧山は伸び悩み。残るは相変わらずという表現がピッタリの藪、ロートルに成り果てた和田や大豊。
上坂、田中秀太、浜中、井川といった若手やルーキーの赤星に一縷の期待をしましたが、彼らが順調に成長するビジョンなど、飼いならされた阪神の支持者からすれば、あるわけがなかった。
案の定、この年も野村就任の前年から合わせて4年連続の最下位。実は4年連続最下位は球団史上初であり、つまり野村克也が指揮を取った年すべてが最下位だったというわけです。

でも、いくら球団史上初のこととはいえ、もう最下位には慣れていた。だから実はそこら辺のことへのガッカリ感はなかった。
けど、もう、当時の阪神ファンはみな同じだと思うけど、野村政権には心底うんざりしていたのです。
これ、采配ガーとかじゃないんですよ。まだ采配云々なら健全だし、基本的に試合を見ることができない福岡の地では細かい采配はわからない。(現注・1999年当時、福岡に在住していた)
しかし、呆れんばかりに、毎日毎日「野村」の名前がテレビで連呼されていた。
もうおわかりでしょう。そう、あの「ミッチー・サッチー騒動」です。

正直アタシは今でもこの騒動には何の興味もないのです。しいていえばこの当時から「実は<サッチー>ではなく<ヨッシー>なんじゃないか」と思っていたくらいで。
いくらアタシが興味はなくても、連日ワイドショーでこの騒動が取り上げられていた。んでいつしかミッチー抜きのサッチー叩きにシフトしていきました。

今から10年くらい前だったかな(現注・と書いてあるけど、たしか2008年くらいからだったように記憶している)、何か「オネエブーム」みたいなのがあったけど、この頃のこの手の謎ブームは「熟女ブーム」でした。熟女と称される女性をスタジオに並べて罵言を吐かせる。そんなよくわからないブームがあったんですね。
だからアタシも最初はそうしたブームの一環としての騒動だと思っていたわけで。
面白いのが、いやぜんぜん面白くないけど、野村政権一年目に首位に立ったと書きましたが、騒動が激化するにしたがって順位を落としていったのです。

最初はノムさんもかなりリップサービスをしたりしてマスコミとの関係も良好でしたが、騒動が大きくなるにしたがって口を閉ざすようになった。
野村克也は自著でたびたび「関西マスコミの扱い方を間違った」「阪神の選手が子供すぎた」と書いてますが、そんなことより圧倒的にこの騒動が尾を引いていた。
騒動の余波で野村克也が黙ることによって、すべてが狂っていった。お得意のマスコミコントロールも使えず、いわば手足を縛られた状態になっていったわけで。

あれ、当時の選手はどう思っていたんだろうか。
毎日あれだけ監督の嫁さんがバッシングされて、何にも思わないなんてあり得ない。いくら野村克也が正論を吐こうが「テメエは嫁さんの管理も出来ない癖に」と心の中で思われていても、何ら不思議じゃないし、しょうがないとすら思う。

ファンも同じなんですよ。
たまに試合を見ると(現注・野村政権下の頃アタシは福岡在住で、ほとんど阪神の試合を見られなかった)、さすが野村、と思えるような采配をしているのですよ。当時の阪神は戦力自体が他球団に比べたら数ランク落ちだったので、弱いのは諦めていたわけで、実際、野村の采配で勝った試合もだいぶあったと思う。
けど結局「お前のせいで阪神のイメージは最悪になったじゃねーか。しかも肝心のチームも強くなるどころか、むしろ弱くなってるし」と。

星野仙一が監督になり、2003年に優勝することになるのですが、選手からしても「やっと心から勝たせたいと思える人がトップに立った」って気持ちが相当強かった気がする。
ま、ギャップってヤツですよね。そう考えると野村政権は意味があったってことになる。だけれどもそれはけして「野村が育てた選手が」とか「野村によって選手が意識改革した」とかでは、まったくないんだけど。







Copyright © 2003 yabunira. All rights reserved.