知らない映画の感想+PCL映画「すみれ娘」の感想
FirstUPDATE2017.8.20
@Scribble #Scribble2017 #映画 @戦前 #音楽劇 #東宝 単ページ 映画評 感想 @すみれ娘 堤真佐子 リキー宮川 P.C.L.

これ、何でかよくわからないんだけど、観たことがない映画のサントラ盤を聴いてもね、本当につまんないんですよ。音楽としての出来不出来関係なく、もう単純につまらない。

しかも、何でか映画だけ。前に「ゲバゲバ90分!」のサントラ盤のことを書いたけど、アタシの年代でまともにゲバゲバなんか見てるはずもない。それでもこのサントラは非常に良い。んでこの現象はゲバゲバに限らずね、テレビ番組のサントラ盤なら、わりと大丈夫だったりするのも不思議で。
もう、ホントに映画のサントラ盤だけなんですよねぇダメなのって。

映画とテレビ番組、もしかしたら一番の違いは「未見のものへの印象」なのかもしれません。
テレビ番組って面白いが、実際にその番組を見てるか見てないかはさして重要じゃないんです。それよりも「何となくの印象」の方が大事というか。
たとえばアタシは「世界の果てまでイッテQ!」を見ていない。「鉄腕DASH」は一時期見てたけど、今はまったく見てない。他意はないけど。

それでもこれらの番組にたいしてボンヤリとした印象があって、たまにチャンネルを合わせても、アタシの中にある「ボンヤリ」とそう印象がズレてないんです。
だからもし「イッテQ」のオリジナルサウンドトラックがあって、その中に良い曲が入っていれば、わりとすんなり受け入れられると思う。
たぶんバラエティに限らずドラマやアニメでも一緒で、実際見てないドラマやバラエティのサントラ盤を聴いても拒絶反応はないし、音楽は音楽として聴くことができると思うわけでね、

ところが映画になるとそうはいかない。
映画だってね、多少なりとも興味がありさえすれば、内容のボンヤリとした印象くらいはあるんですよ。
でも映画は、何というか、そこからの壁が高い。
サントラ盤だけに限らず、見てない映画の感想とか論評とかって面白くないんです。これがテレビ番組なら「ああ、そういう番組なんだ」と、まァ、知識が増えた、くらいの満足度があるんだけど、映画の場合はそうじゃない。
どうしても観たい、だけれども観るのが困難な映画とかでも、感想や論評を読んでも面白くないのは当然として、テレビ番組のように知識が増えた感じもしない。
理由が何なのかさっぱりわからないけどね。

これ、自分でね、このブログでも映画の感想めいたことを書くことがあるけど、たぶん読んでる人はつまんないんだろうな、と思いながら書いています。
まだ「シン・ゴジラ」くらいメジャーな映画の話ならともかく、アタシが好んで観る戦前の邦画なんか、どれだけ熱く感想を書いても観た人が極端に少ない以上、興味をひかない=つまんないってわかってる。だから極力書かないようにしている。作例として挙げることはあるけど、せいぜいそこ止まりにしているわけです。

いやね、もう読んでもらっている人を完全に置いてけぼりにするのであれば、いくらでもテキストなんか書けるのですよ。
たとえば「すみれ娘」(1935年・P.C.L.・山本嘉次郎監督)なんて映画の感想とかを書こうと思えばそれなりの長文が書けるけど、そもそもこの映画を観た人がどれだけいるか。名画座でもほぼかからないし、一度たりともスカパーですら放送されたことがない。アタシは特殊なルートからビデオを入手したけど、こんなビデオ持ってますよ、となってもいったいどれほどの人が欲しがるのか、といえば、それすらほとんどいないと思う。
そんな映画の感想とか、誰が読みたい?だからね、アタシも好きなことを書いてるようだけど、それなりに抑制はしているのです。

しかしさ、そう考えると、「すみれ娘」レベルのマイナーな映画の感想と、アタシがテキトーにデッチ上げた存在しない映画の感想(←さすがにここまで悪どいことはやったことないけど)は、少なくともブログの文章としてみれば似たり寄ったりの価値しかないということになります。
昔こんな映画があって、なんてふうに、ありもしない映画のあらすじと感想を書いてね、でもそれは実際に存在するけどマイナーな映画の感想と大多数の人にとっては価値は変わらない。つまり「存在を知らない映画」ってだけで、すべてが十把一からげになるっつー。

たしかにこのブログは人に読んでもらうことなんかほとんど考慮してないし、マニアックな話であればあるほど人を惹きつけるってのも理解しているつもりです。
それでも、やっぱ、存在すらほとんど知られていない映画のことを書こうとは、あんまり思わんね。
別名義でやってたブログで、そーゆーことをいっぱい書いてわかったことだけど、そーゆーのばかり書いてると虚しくなる。別にマニアック知識自慢をしたいわけじゃないし、ただ自分の好みを開陳してるだけなのに、存在を知らないってだけで大多数の人には一気に興味のはるか外に出てしまう。
それはね、辛いんですよ。やっぱ。

このブログは「ひっそり」とやるってのを標榜してるわけで、誰も読んでいないのはまったく構わない。負け惜しみでもなんでもなく、誰も読んでないってのはむしろ喜ばしいこと、くらいに思っている。
だけれども、知られてないだけで実際に読んでみたら面白いというふうにはしたい、とかねがね思ってはいる。知られてないし、読んでもつまらない、となったら、あまりにも取り柄がなさすぎるから。
読んでもつまらないってのは、他人だけじゃなしにアタシ自身も含まれる。アタシは自分で書いてるんだから書いてる内容は完璧に把握できるけど、マイナーな映画について熱く語ってるのを読み返すと「いったい何のために書いてるんだろ」ってね、自分で読み返していてさえ虚しくなるのですよ。

話が逸れたような気がしないでもないけど、だからこそ、一番そーゆー感想を持たれやすい「知られてない映画の感想」はなるべく書かないようにしている。むしろそれだったジョークで、ありもしない映画の感想を無理矢理デッチ上げた方が、まだマシな気がするんですよね。

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令和の世界からお邪魔しますが、えとね、書いてることは今の自分が読んでもその通りだと思うんですよ。
ただ、いったい「知らない映画の感想がどれほどつまらないか」をわかってもらった方が良い気がしてね。そこで文中でも名前を出してる「すみれ娘」という映画の論評を併せて載せておこうかと。

以下の文章はこのためにわざわざ書き下ろしたのではなく、仕事用ブログにエントリする予定だったものの、結局諸事情で仕事用ブログを辞めてしまったのでボツ扱いになったものです。
何しろ仕事用としてエントリするために書いたものなので、かなり噛み砕いて書いてはいるのですが、ま、それでもね、いろいろと、うーん、という感じなのですが、兎にも角にも置いておきます。
それではどうぞ。

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今日は1935年にP.C.L.で製作された「すみれ娘」という映画の話です。

エノケン映画を撮るためにP.C.L.に呼ばれた山本嘉次郎ですが、専属監督が他に木村荘十二くらいしかP.C.L.にいなかったこともあって「エノケン映画以外」も撮ることになります。
割り振られたのは、宝塚歌劇団の白井鐵造が原作を手がけたシネオペレッタ劇。シネオペレッタという名称自体山本嘉次郎が考案したものであり、エノケンこそ出ていないものの、やはり山本嘉次郎に期待されていたのはP.C.L.という会社の本丸といっていい、モダンな音楽劇だった、ということがうかがえます。

さて、タイトルの「すみれ娘」というのは「すみれの花咲く頃」から来たものです。これは宝塚歌劇団のテーマ曲になっているような歌ですが、宝塚歌劇団に興味のないアタシでも出だしくらいは歌えます。言うまでもありませんが

♪ すみれの花咲く頃~

ですよね。
ところがこの映画の劇中で歌われるものは歌詞が、もう微妙すぎるくらい微妙に違う。

♪ すみれ花咲く頃~

どこが違うかわかります?そう、「すみれ<の>花」の<の>がないんです。
作詞はこの映画でも原作をつとめた白井鐵造。となると勝手に改変したとは考えづらい。
昔は<の>なしの歌詞だったのかね。宝塚歌劇団に詳しい方、ぜひご教示ください。

劇中で歌ったのは、ヒロインの堤眞佐子と、相手役のリキー宮川。
リキー宮川のことは後述するとして、堤眞佐子については「エノケンの青春醉虎傳」のことを書いた時に、やや詳しく書きました。(現注・もちろんこのエントリはScribbleではオミット)
堤眞佐子は当時のP.C.L.を代表する女優で、いわばモダンガァルで売っていたのですが、そして事実何ともいえないモダンな雰囲気はあるんだけど、顔立ちは丸ポチャのおばちゃん顔。「青春醉虎傳」の時も書いたけど、後の言葉でいえばファニーフェイスということになります。

ところがこの映画、堤眞佐子がモテるモテる。相手役のリキー宮川は金持ちで、しかもハンサムボーイの売れっ子画家なんだけど、ま、百歩譲って「いろいろあった末に恋仲になる」ってのならわかる。
でもこの映画では、リキー宮川の一目惚れに近い形で、しかも「キミみたいなモデルを探していた」と言われた日にゃ、ね。

「すみれ娘」という映画は結構幻の映画に近くて、ネットで検索してもほとんど情報が出てきません。(まったく関係ない話だけど、「すみれ娘」で検索したら<石田純一の娘のすみれ>ばかりヒットしてしまう)
だからほとんど予備知識なしで観たんだけど、最初ね、リキー宮川の役を「上手いこといって女性をたぶらかすプレイボーイ」だと思ってたもん。まさかファニーフェイス堤眞佐子に本気に惚れてるなんて、思わない。
最初の方で藤原釜足が売れない彫刻家役で出てくるんだけど、こっちが真の相手役だと思い込んでたくらいだから。

でも違った。リキー宮川は正真正銘の相手役で、藤原釜足は徳川夢声や岸井明同様のコメディリリーフに近い役回りだった。
これはね、ヒロインを、例えばもうひとりの当時のP.C.L.を代表する女優の千葉早智子にしたら、わりと納得いったと思うんです。たしかに千葉早智子はモダンガァルというより、どっちかっていうと古風な感じだし、堤眞佐子のような明るい雰囲気でもない。
でも、もう、単純に見た目の問題ですよね。千葉早智子なら、まァ、完璧超人のリキー宮川が惚れるのもわかるっつーか。

ま、完全にぶっちゃけていえば、リキー宮川と堤眞佐子が「お似合いじゃない」ってことなんだけど。
それでも堤眞佐子といえば結構な作品でヒロインをつとめているわけで、そんな堤眞佐子でも「お似合いじゃない」リキー宮川とはいったい何者なのか、です。

残念ながらネットで「リキー宮川」と検索しても、生没年がわかるくらいで、めぼしい情報を拾うことはできません。
彼は当時流行だった「アメリカ生まれの日本人歌手」で、レコードも数枚吹き込んでいますが、特にこれというほど大ヒットしたものはなく、ディック・ミネに隠れたような存在になってしまっています。
しかしそのクルーナー唱法はホンモノで、こういっちゃナンだけど、顔もディック・ミネよりも圧倒的に男前です。
映画にも結構出演しており、これまた幻の映画といわれた「舗道の囁き」にも主演格で出ている。
にもかかわらず現在、名前が忘れられたのは、早逝したことで活動期間が短かった(しかも戦争を挟んでいる)のが原因でしょう。

もうひとつ原因を挙げるなら、あまりにもすべての言動がダンディすぎて、相手役としても変なのです。アタシもプレイボーイ役だと思ったくらいだし。
色川武大は伝聞という形で『(筆者注・実生活では)きわめつけのプレイボーイだった』と書き残していますが、ダンディさだけでなく、どことなく女の影があるというか、色気がありすぎるのです。(ディック・ミネだって名うてのプレイボーイだったけど、たいして男前でないことが幸いしたと思う)

リキー宮川は劇中、紙恭輔率いるP.C.L.管弦楽團の伴奏で「ダイナ」を歌いますが、これがわりと結構なもので、個人的にはディック・ミネの「ダイナ」よりもいい。
このショウシーンは「すみれ娘」の中でも唯一後世に残したいシーンであり、このシーンのためだけにこの映画を観てもらいたい、といえます。
全体として、いろいろピントがボケた映画(徳川夢声のインチキ博士が作る「若返りの薬」なんてシークエンス、いるか?)なのは間違いない。
実際、公開当時から悪評プンプンだったらしい。徳川夢声なんか、自らも出演しておきながら「超特愚作」なんて書いちゃうくらいだし。

でも山本嘉次郎が「実は真面目なシーンこそ本領が発揮できる」ことを証明したのは、ま、この映画の功績といえるんじゃないでしょうかね。