ギャグは下衆である
FirstUPDATE2017.7.28
@Scribble #Scribble2017 #藤子不二雄 #笑い #性 単ページ 赤塚不二夫 藤本弘 エスパー魔美 フェチ 下衆 ギャグ

藤子・F・不二雄について、どうも、何故か、SF漫画家という観点から語りたがる人は多いけど、やっぱり、アタシはギャグ漫画家だと思う。むしろギャグ漫画に趣味であるSF要素を持ち込んだ、といった方がいいんゃないかと。

こんなことを書けば、まァ大抵の藤子マニアに怒られます。
何故なら両藤子不二雄先生の出発点は「手塚治虫」だからです。両先生とも、手塚治虫の「新宝島」や「来たるべき世界」を読んで、そこから漫画にのめり込み、漫画家を目指すようになった、という過程がある。
だから出発点、ということを考えれば、最初からSF志向があったとするのが自然で、むしろ「笑わせる」ということにかんしては、漫画家になるための手段でしかなかったともいえるとは思うんです。

というか手塚治虫や藤子不二雄が漫画家になった当時は、いわゆるギャグ漫画というものは存在せず、といっても「笑わせる」漫画が皆無ってことではなくてね、ギャグというよりはユーモアの範疇で「笑わせる」漫画が描かれていたのです。
大抵は落語の与太郎をモチーフにしており、これは大正期の「ノンキナトウサン」から昭和に入ってからの「のらくろ」まで、与太郎的なことを主人公ないし主要登場人物がしでかして笑いをとる、というのが基本線でした。

これが1960年代に入って変わります。
最初に、かはわからないけど、相当意識的にユーモアではなく「ギャグ」を取り入れたのは赤塚不二夫で、赤塚不二夫以降、与太郎的ユーモアは急に色褪せていきます。
たぶん最後のユーモア漫画家が「わちさんぺい」で、以降に登場した「笑わせるための漫画を描く漫画家」はすべてギャグ漫画家になったはずです。
わちさんぺいの「火星ちゃん」や「ナガシマくん」は今の目で見ると独特のテンポが病み付きになりますし、テンポはわちさんぺい作品に近いながら、ユーモアとギャグの中間の作風で1940年代から活躍した杉浦茂という人もいましたが、それでも潮目が変わったのは赤塚不二夫登場以降だというのが私見です。

赤塚不二夫はギャグ漫画の寵児となると同時に、自身の生き方もギャグに捧げたふうになりました。
彼の破天荒な生き方は「地金」というよりはサービス精神のところも大きいとは思うのですが、少女向けの恐怖漫画を描き終わると一転「まことちゃん」でギャグ漫画家に転じ、自身の存在までギャグにしてしまった楳図かずおなんかは間違いなく赤塚不二夫の影響下にあるといっていいでしょう。

さて、アタシは最初に「藤子・F・不二雄はギャグ漫画家だった」と書きました。
しかしオフィシャルイメージの藤子F先生は、何というか赤塚不二夫あたりとはまったく違う。真面目っていってしまうとつまらない人間みたいだけど、落ち着いた知的な人、みたいな感じでした。
全身ギャグ漫画家に殉じた赤塚不二夫が「笑わせる」漫画を描く、という構図はわかりやすい。
しかし、読者を笑わせたということにおいてはまったくヒケをとらない、むしろ読者量を鑑みれば赤塚不二夫以上の人を笑わせた藤子Fの異色ぶりがわかると思います。

たしかに飄々とした人柄ではあったんだろうけど、一見笑いのことなんかまるで興味がなさそうな藤子Fが、頭の中ではとんでもない「笑わせ脳」を持っていたってのはかなり興味深い。
以前書いた通り、藤子Fの笑いの基礎となったのは落語なのは間違いない。しかし実際ドラえもんなんかを読んでみればわかるけど、とてもじゃないけど落語的発想だけでは出てこないようなギャグも散見されます。

ああいう絵柄なのでわかりづらいっちゃわかりづらいとは思うけど、アナーキーさも残虐性も、そして性的な下衆さも、藤子Fは赤塚不二夫以上のところがあります。
性的な下衆が一番わかりやすいんだけど、赤塚不二夫は意外とそっち方面のネタは少なくて、やったとしてもわりとストレートな「セックス」ネタになってしまう。(「くそババア!!」も禁欲っちゃ禁欲だけど、先にあるのはセックスだし)

一方藤子Fはというと、果てしなくフェティシズム的で、ギャグでは、ないんだけど「エスパー魔美」なんかフェティシズムとしか言いようがない。
親父が娘のヌードを描く、という時点で十分だけど、そのヌード画を同級生の男の子が見てもモデルとなった女の子は何とも思ってない、というのはあまりにもフェティシズムでありすぎます。
ギャグとして処理されているものでいっても、しつこく挿入されるしずちゃんの裸はロリータを超えて完璧にフェティシズムですよね。

これも以前書いたけど、やっぱり両藤子先生の趣向は同じだと思う。もっとも表現法が違うからまったく違って見えるけど。
A先生の場合はフェティシズムも残虐性も単純明快な表現を好む。片やF先生は当然絵柄の違いがあるにせよ、もっともらしい理屈をつけることで(「エスパー魔美」なら芸術、とか)オブラートには包む。包むんだけど、よくよく見ると下衆さは赤塚・A以上っつーね。

ユーモアはある程度綺麗事だけでも成り立つかもしれないけど、ギャグは綺麗事だけではどうしようもない。つか上品なギャグなんか、まったく無理じゃないけど種類が限られすぎる。
やっぱ、根底に下衆な部分が必要だと思うけど、表面上はフザけた感じがまったくない「落ち着いた知的な」イメージだったF先生の頭には、常に下衆なことがうごめいていた、アタシはそれこそ本当のF先生だと思うし、だからこそ本気で敬愛している。

逆にいえば、どうも、変な神格化は嫌なんですよねェ。







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