本当に人々の見る目は肥えたのか
FirstUPDATE2017.7.4
@Scribble #Scribble2017 #フィクション 単ページ 王道 孤独のグルメ

いきなり野球の話で恐縮ですが「昔に比べて野球のレベルは確実に上がった」といわれる一方、「トップレベルにかんしてはそこまで上がったわけではない。

もしタイムマシンがあったとして、かつての名プレーヤーを現代に連れてきたら、本当の成績を凌駕するほどの活躍はできないかもしれないけど、アジャストしていけば十分一流の成績を残せる」という意見もあります。
後者も全体としてはレベルが上がったことは認めている。レベルがそこまで変わらないのはあくまで一流に限ってはという話で、二流以下は大幅に上がった、というふうに。つまり底が上がった分、全体のレベルも高くなった、とね。

スポーツってのは「技術」と「トレーニング」の両面で進化しているので、過去の記録は陳腐化しやすい。はっきり記録として表れる陸上なんか最たるものです。
かつては特殊な技術だったものが、やがて一般的になる。有用性がはっきりしたからだし、安価で技術が使えるようになるからです。
では技術があまり関係ないことはどうか、という話です。
もちろんまったく技術が必要ないものなんてあり得ない。作劇だろうが小さなアイデアだろうが、技術なくしては実現できない。でも、いわゆる根幹の部分ですね、にかんしてはそこまで進化しているわけでもないような気がするんです。

音楽でいえばメロディ、フィクションであればストーリーといったあたりです。この辺は技術を駆使してやれば良いものっつーか、より人々が受け入れてくれるものが作れるというわけではないので当然です。いくら「手」を凝らした作品でも人々がまったく関心を示さなければ何の価値もありませんからね。
これね、逆にいえば、受け取り側も同じことがいえると思うんです。
技術を凝らした映像やアレンジなんかは関心を惹きやすい。ゲームなんかもっともわかりやすいけど、ファミコンのゲームとPS4のゲームを見て、誰も同じ技術で作っている、とは思わないでしょう。つまり直接目や耳に飛び込むものは誰しも敏感なんです。

ところがストーリーやメロディといった技術よりも感性が優先されて作られるものにかんしては鈍感になりやすい。せいぜい過去にあった作品と比べて似てる似てないを言及するのが関の山です。
よく今の人は目が肥えている、といいます。
これがまったく間違っているとは思わない。さっき書いたように映像や音質といったわかりやすいところにかんしては、やっぱ目が肥えていると思う。
オンボロフィルムのガサガサ音質の作品なんか見るに堪えない人が大半だろうし。そういった意味では目は肥えているのでしょう。
しかし根幹の部分が画期的なものにかんしては、はっきりいえばついていけない。

アタシがしつこく「王道の有用性」について書くのはそういうところなんですよ。
未来のことはわかりませんよ。もしかしたら今の人がまったく理解できないものを面白がっている可能性はないとはいえない。
でも今の、少なくとも2017年現在の一般的な人が一番面白がるのは「王道」なんです。ところが何を思っているのか、なるべく王道から外れよう外れようとするものが増えてるいるような。
大半の人がつまらないと感じる作品は、例外なくやるべきことをやっていない。一見王道風でもアウトラインが王道なだけで、細かいところで王道を外そうとして、または王道が理解できずにグダグダになってしまっている。

ドラマ版「孤独のグルメ」なんか一見アクロバティックなドラマだけど、流れは完全に王道に準じています。「メシを食う」行為の中に共感させたり落胆させたりしながら、クライマックスまで持っていっている。
つか「孤独のグルメ」は劇伴からもあきらかなように、ベースになってるのはよく言われるハードボイルドでなくて西部劇ですからね。いわば主人公の井之頭五郎は西部劇のヒーローなんですよ。メシを食い終わった時のカタルシスが「街に蔓延る悪党を全滅させた」時に極めて近しい。
アクロバティックな設定だからこそ細かいストーリー展開は王道でやる。だからこそこれだけ受け入れられたと思うわけで。

王道ってのは一種の目配せなんですよ。本当に受け取り側を楽しませようとなると細部まで目配せが必要になるのは当然のことで、これは言い過ぎかもしれないけど、発信する側は受け取り側に「気を遣っている」状態なんです。
本当に見巧者ばかりの、つまり見る目が肥えているのであれば、気遣いなんか不必要でなければおかしい。王道なんかぶっちぎって、ひたすら自分たちが面白いと思うことを発信する。しかし現実にはそれでは通用しないし、得手勝手なマスターベーションのような作品と見做される

でもそういうのはストーリーとかの根幹の部分だけなんです。制作費の問題はともかく、技術を駆使した美しくて壮大な映像を見て「これは作り手のマスターベーションだ」なんて、ま、普通の人は思いません。何故ならわかりやすい形で技術が見えるから。
本当はいくら凄い技術が使われてたとしても、絶対に技術のマスターベーションってのあるはずなのに、何故か受け取り側はそう取らない。マスターベーションと見做されるのは、もっぱら根幹の感性勝負の箇所だけなんです。
もっと人々はエンターテイメントを見る目を養った方がいい、そんな馬鹿げたことはいいません。アタシだって別に自分のことを見巧者だなんて思ってないし。

でも、だったらせめて、技術の凄さを誇示したようなものも同じように「これ、作り手の自己満足だよね?」みたいにね、技術勝負の箇所と感性勝負の箇所と同等に扱うべきなんじゃないでしょうかね。そうなってやっと「今の人は見る目が肥えている」といえるような。







Copyright © 2003 yabunira. All rights reserved.