2012年9月から半年間、アタシはロンドンに滞在していましたが、更新回数は少ないとはいえ、この期間も何度かエントリはしました。もちろんこの期間に書いたテキストはロンドンで書いたに決まってるのですが、やはり、どうも、いろいろ変な感じでね。
まあアタシは年齢的なこともあって、仮面ライダーといえば「ストロンガー」までしか認めてないんだけどね。いや認めてないわけじゃないんだけど、興味がないのはしょうがないっていうか(2013年1月6日更新「荒野の仮面ライダー」)
さすがに海外滞在期間は、上記のような「いつもと変わらない」感じのエントリはさらに少ないのですが、まァ、それでも皆無ではないわけです。
上記のエントリは「ロンリー・仮面ライダー」という楽曲について書いたものですが、何でこんなエントリを書こうかと思ったかといえば、頭の中でしつこくこの曲が鳴り響いていて、鳴り響く毎に自然と「さすらいの口笛」との共通項が見えてきたからです。
しかし、よくよく考えると、はるか異国で「ロンリー・仮面ライダー」のことを考えてるってのはかなり変だし、それをまとめてブログに書こうなんて、相当レベルを超越して変です。
このエントリを書いた時の状況はかなり鮮明に憶えているけど、ネロってカフェで書いたんだよね。もちろんまわりはガイコクジンばっかり。そんな中で日本人がひとり「ロンリー・仮面ライダー」について思いを巡らせているシチュエーションってのは、自分でもシュールだな、と感じながら書いていたわけで。
んで、今回のエントリも、異国で書いている。先ほどと同様、ガイコクジンしかいない環境です。
何で改めてこんなことを書こうと思ったかというと、思考は環境にどれほど左右されるのか、自分で知りたかったからです。
異国でね、たとえ現在進行形ではない過去のことであろうが、日本の事象について書く、というのは、何となく不安なんですよ。今回はまァ旅行っつーか短期だからそんなでもないけど、半年間行ってた時は「おいおい、大丈夫なのか」と思ってしまった。
もしかしたら自分は一般的な日本人と比べると、ものすごく考え方がズレてるんじゃないか、みたいな不安でね。
いやもう今の時代、ネットがあるっつーことは日本であろうと異国であろうと、情報の収集にはほとんど差はないんですよ。そりゃリアルの部分、日本の友人と会ったりとかね、そういうのはできないんだけど、アタシはあんまり積極的に人と会う方じゃないので関係ない。
つまり日本にいようが異国にいようが何も変わらない。なのに不安になるのは、やはり「日本の空気を吸ってない」、これしか考えられないんですよ。
このブログは野球関係エントリを除いて、リアルタイムで更新しないと意味がないようなことはほとんど書かないし、基本的には過去のことをほじくり返しているだけです。でもそういうものでさえ「今現在」の「日本」という空気感は必要なんじゃないかと。
それに空気感だけじゃなしにね、異国で何か書くと思考っつーか内容が、どうしてもデータ寄りになる。この手のブログの生命線である、抑えきれない「感情」や「志向」がどうしても薄くなってしまう。冷静といえば聞こえがいいけど、醒めた無感情の、味も素っ気もない内容になりやすい。
というか、2012年9月~2013年2月に書いてるブログを読むと、ちゃんと感情を吐露しようと意識し過ぎているんです。どうしても醒めた感じになりがちなのは自覚していたので、無理矢理感情を詰め込もうとしている。
でもそんなのは自然じゃないから、いくら熱く書いてるつもりでも、読んでてシラけてくるんです。いわゆる「行間から滲み出る」ってのが、まったく出来ていないっつー。
では異国で異国のことを書けばどうなのかといえば、いくら抑えて書いても、それこそ行間に感情がほとばしっている。さっきも書いたようにそれがブログってモンの生命線なので、わりと上手く書けやすい。もちろん空気感の面での心配事もないですし。
アタシは「街」についてよく書いてるけど、しょっちゅう訪れる街はね、書いてて安心なんですよ。内容が的を射ているかはともかく、少なくとも空気感はハズしてないぞ、みたいな。
反対に思い入れはあるけどしばらく行ってない街のことを書く時は不安になる。もちろん日本にいながら異国のことを書く時も不安になる。
それは「ついこないだ行ったかどうか」はあんまり関係なくて、頻繁といえる割合で行っているかどうかが重要なんです。頻繁であればあるほど安心できるし、期間が空いていれば空いているほど不安になる、というか。
「安心」とか「心配」といった心の揺れに文章が左右されないわけがない、という話なんだけど、でもこれもブログの面白いところっつーかね。
カネを貰って書いてたら、心の揺れなんかでクオリティが左右されちゃ絶対にダメです。仕事ってことになるわけだから当然です。
これ、考えてみると結構面白い。
インターネット登場の前は、人々が目にする文章ってのは、ほぼすべて、新聞の投書欄のような短文を除けばすべてカネを貰って書かれた文章=プロの文章だったということになる。つまり面白い面白くないはさておき、クオリティの揺れが少ない文章だった。逆にいえば人間が本来持つ心の揺れがダイレクトに現れた、素人臭いかもしれないけどナマっぽい文章を読むことはほぼ不可能だったということになります。
しかしインターネットが隆盛を極めるこのご時世はそうじゃない。揺らぎまくっているナマの文章なんか、読もうと思えばいくらでも読める時代ですからね。
単純に文章としてはイマイチなのかもしれないけど
実は俯瞰で眺めれば、つまり
「ああ、コイツ「コワゴワ」書いてるな」
ってのを察しながら読むと
意外と面白く読める
かいつまんでいえば、それが異国で日本について書いた文章の魅力じゃないかと。今回のエントリがそうなってるのかはわからないけどね。
では今から飛行機に乗ります。