これ、もう不思議で不思議で。つかドラマなり映画なりをクサす時の常套句じゃないですか。誰それの演技が酷い、とか。
何度もここで書いている通り、アタシには芝居の上手い下手なんかわかんないですよ。自慢でもなんでもないけど、アタシもそれなりにドラマや映画を見てきたという自負はある。でも、わからない。
ただしわかることもあります。
ひとつは「難しい役どころ」です。
以前「べっぴんさん」についてのエントリで、アタシは主演の芳根京子や永山絢斗について「好演していた」という風に書きました。
しかし彼女らの演技が上手いかどうかは、正直わからない。わかるのは「まだ若く、演技経験も潤沢ではないのに、難しい役どころを違和感なく演じることができていた」から「好演」と思ったのです。
もうひとつは「役者の特性」です。
これも「べっぴんさん」のエントリで市村正親という人の特性について書きました。
本来、特性に合わない芝居をさせられたら大根演技に見えやすい、とは思うんです。でもそれはキャスティングの失敗であり、役者本人には何の責任もない。そして「べっぴんさん」での市村正親のように、特性に合わない役でありながら違和感なく演じられた、となったら、これは「好演」といえると思うんですね。
もちろん「論外」というものもあります。演技の最低限もクリアできていない、みたいな。でもそういう人は誰とは言いませんが極めて稀で、だってさすがに論外レベルの人をドラマや映画に使おうとは、よほどの事情がない限り思わないでしょうから。
アタシがわかるのは以上のことだけです。それ以上の上手い下手はわからない。
そして大半の人が「演技が下手だ」と思う理由は先に述べた内容と同じで「役者の技量や特性を無視したキャスティング」にあると思っているのです。
どんな役でも違和感なくこなせる、そういう役者さんはいます。しかしそれって結局テクニックの話だと思うんですよ。
テクニック至上主義になってしまうと、たぶんそのドラマや映画は視聴率的に、もしくは興行的に失敗します。というかひとつの作品に「上手いけど地味な役者」って実はそんなにはいらないんです。ドラマにしろ映画にしろ芸術作品じゃないんですよ。娯楽作品なんですよ。作り手の自己満足はあまり必要ない。
問題はそこじゃないような気がするわけでね。
これも以前書いたけど、華はあるけど演技の技量の足りない役者をどう活かすか、それが成功の鍵であり、失敗した作品はその辺への心配りが欠如していたんじゃないかと。
というか、上手い下手関係なく、役者の技量と特性にたいする配慮が薄い作品が多いような気がしてならないんです。
話は変わるようですが、スマホとパソコン、どっちが便利か、みたいな話題というか、いやiPhoneとAndroid、デスクトップPCとノートPC、でもなんでもいいけど、そーゆーのは特にネットでは議論の対象になりやすい。
実際「どっちの方が上」なんてことはまずない。単純に特性が違うだけです。そして特性を把握した上で使うことが大事なわけであって、スマホの方が得意なことを無理矢理パソコンでやろうとしたり、逆にパソコンでやった方がいいことを無理矢理スマホでやろうとしたりすると特性に合ってないから「ダメ!使えない!」ということになってしまう。
これはドラマや映画でも一緒なんですよ。
ちゃんと特性や技量を理解した上でキャスティングする。そして特性や技量に合わないと理解した上でキャスティングした場合は、「無理なことをやらせている」ということを脚本上、演出上で最大限に配慮してやる必要がある。
役者が下手に見える、それは配慮の欠如であり、製作者サイドのミスでしかない。
そしてこれは受け取りサイドも同じです。
そういえば最近、不思議なほど「ミスキャスト」という言葉を聞かなくなった。昔は特性や技量に合わない役をやった(やらされた)役者にたいしてミスキャストというね、役者ではなく製作者サイドに問題がある、という言葉がもっと使われていたんです。
ところが最近は作品が成功しなかった、それはつまり役者が大根だからだ、みたいな役者サイドの失敗にすり替えられているような気がしてならない。
もうね、一般の人で、極端な場合を除いて、純粋に演技だけを見て、あれは上手い、あれは下手、なんてわかる人はまずいないと決めてかかっていい。何度も言うようにアタシもぜんぜんわからないし。
人間、わからないことにたいしては受け売りがちになります。誰かが「誰それは演技が下手」と言ったら、自然と「ああ、そうなのか」となる。そしてフィルターがかかった状態で演技を見ると本当に下手に見えてくる。ほとんどの人はそこで「いや待てよ、そう言われてるけど、本当に下手か?」なんて疑いやしない。
それをね、マスメディアは利用できるんですよ。
アタシは陰謀論者ではありませんから、実例があるのかどうかさえ興味がありません。しかし誰それの演技が下手→ドラマ(映画)が失敗したのは誰それの大根演技のせいだ、みたいな責任のなすり付けは、可能か不可能かでいえば可能なんです。
そこまでではないにしろ、アイドル上がりは演技が下手だとか、劇団出身者は演技が上手い、とか、わりと平気で書くでしょ。アイドル上がりでも上手い人はいると思うし、劇団出身者でも先の市村正親のように幅が狭い人もいる。でもそんなのは無視して決めつける。その決めつけに一般の人も乗っかる。その程度の図式は成り立っているわけで。
つか何でもそうだけど、わからないことはわからないでいいじゃん。わからないことをわかろうとするのは大事なことだけど、演技をわかるようになるなんて、もう「あっち側の人間」にならない限り無理だよ。
さすがにそこまでね、「誰それの演技はドーチャラコーチャラ!」と言いたいがためだけに「あっち側の人間」になるほど暇な人もいないでしょうから、だったら「わからない」、それだけでいいんじゃないの?ねぇ。