こないだちょろっと平野ノラのことを書きましたが、よくよく考えたら、いったいあのバブル芸のターゲットってどの辺にあるんだろうと。つまり誰を笑わせるための芸なのかなって。
バブル華やかなりし頃を知りたければ、とりあえず泉麻人の「ナウのしくみ」を読むのが一番いい。
文庫にもなってるけど(もちろん絶版)、何故か1984~1987年までをまとめた(1)と、1987~1990年までをまとめた(2)で刊行が止まっているんだよね。あんまり売れなかったのかしらん。新書ではたしか1995年分まで(つまり連載終了まで)出てたはずなんだけどさ。
しかし偶然にも文庫になった期間はまるまるバブルに当てはまる。泉麻人は他にもコラムを書き散らかしているけど、ことバブルを知るとなったら満遍なく事象をピックアップしてある「ナウのしくみ」が一番良いのです。
しかもこれ、連載された雑誌が週刊文春です。
今週刊文春といえば、センテンツスプリングだの文春砲のイメージですが、この頃の週刊文春は完璧なまでのオジサン週刊誌で、そんな雑誌で「ナウ」(今流行りのもの)を取り上げるってのは、やっぱりいろいろ抑制は効いてるんです。
でも、だからこそ、後年の人には飲み込みやすい、というね。
もうひとつ、オジサン週刊誌に連載されたことによって面白いこともわかる。
読者がオジサンなんだから「今流行りのものは、過去の事象と比較して、こんな感じですよ」みたいな読ませ方をしているんです。つまりオジサンたちが「ああ、あれは自分たちが若い頃のアレの現代版なんだ」と理解できるようにしてある。
こうしてもらえることによって、今の流行りとバブル期、そしてさらに過去と比較して、なんてことができるんですね。
さて、この「ナウのしくみ」でも取り上げられていますが、バブル期前夜から初期にかけて「クサい青春ドラマを茶化して笑おう」という風潮がありました。
以前爆風スランプのことを書いた時にも触れたけど、バブルよりやや先行する形でヒップアップが青春ドラマのパロディコントをやってましたし、もちろん爆風スランプの青春路線もこの延長線上にあります。
そのうちパロディでは飽き足らなくなったのか、「青春の巨匠」として森田健作が再ブレイクしたり、往年の青春ドラマのクサさを抽出したような大映ドラマ(「スチュワーデス物語」とか)が大ブームになります。
これ、今の感覚だとわかりづらいから説明すると、こういった風潮が出来たのがバブル期の初期、つまり1980年代半ばです。そしてクサい青春ドラマの黄金期が1970年代前半です。(それ以前の日本テレビで放送されていた学園青春モノは路線というかノリが違う)
つまりはたかだか10年ちょっと前のドラマを「クサい」だの「ダサい」だのと笑いの対象にしていたんです。
「クサい」青春ドラマのパロディを「笑っていた」のは、幼少期にこれらのドラマを見ていた世代です。当然ネタを消化しやすい。だって見ていたもののパロディなんだから消化できて当然です。
ところが昨今のバブルパロディは違う。
2017年から見てバブル期は、何と30年も前です。本気でバブルを笑おうと思ったら、当時すでに大人であることが条件ですから、50歳以上を対象にしなければいけなくなる。
しかし平野ノラをはじめとしたバブルをネタにする人たちが50歳以上を対象にしているとはどうしても思えない。
今はネットがありますから、バブルの頃の事象を調べることはわけない。ちょっと検索してやるだけで、当時のファッションからイベントや流行語なんかもわかります。
しかし「知識として知ってる」のと「肌感覚で知ってる」のは違うと思うんですね。
アタシなんか昔のことを調べるのが好きだから、当然ヤミ市のことは知ってる。でも「新馬鹿時代」というヤミ市を舞台にした映画をネタにした時にも書いた通り、本気で面白がれるのは「肌感覚で知ってる」人の特権のはずなんです。
もちろん「肌感覚では知らないけど、何となく雰囲気で面白い」ってのがあるのはわかります。
たぶん平野ノラで笑ってる人の大半がそういう人なんだろうし、平野ノラもそういう人を対象にネタを作っているはずです。(つかこないだ書いたように、平野ノラ自身バブル世代じゃないし)
しかし逆にいえば「薄く」せざるを得ない、ということです。
つまり「六本木のスクエアビルのエレベーターが」みたいなネタは間違っても放り込めない。それでは対象を絞りすぎることになってしまう。
ヒップアップのネタも、基本的には青春ドラマを熱心に見てなかった人にも笑えるように作ってあったけど、「濃い」ネタを放り込んでも問題にはならない。何故なら観客のほとんどが「肌感覚で知ってる」からです。つまり「薄い」ネタと「濃い」ネタの両面で攻められる。
ところがバブルパロディになると「薄い」、そして視覚的にわかりやすいショルダーホンのようなネタだけになってしまうっつー。
アタシは何でもかんでも「濃く」、つまりマニアックにすれば良いとは思っていません。しかし要所で「濃さ」を出さないと消費期限が短くなりすぎるような気がするんですよ。
というか、もっと根本的な話だけど、泉麻人も指摘している通り、青春ドラマには「クサい」反面、どこか憧憬が含まれていました。だから強かったってのはあると思う。
でもバブル期にかんしては、笑いものには出来るけど憧憬は皆無でしょ。景気の良さには憧れても、間違っても誰もあんな肩パットが入った服なんか着たがりませんよ。
うーん、リアルタイムで知らない世代が見て、憧憬の要素がまったくない、ただただカッコ悪いから笑える、だけのブームって成り立つのかなぁ。それこそアッという間に泡が弾けそうなんだけど。