年少者に自慢話をすると嫌われるぞ、なんてことは、おそらく太古の昔から言われてたことだと思うわけです。
しかし一方、成功譚を聞きたがる人も、同じくらいいると考えて間違いない。功成し遂げた人の自叙伝なんか星の数ほど出てるし、特別ファンじゃないけど自叙伝を読んだら面白かった、なんてのも珍しくないわけで。
以前「若い頃は誰でも根拠なき自信に溢れている」みたいなことを書きました。
と同時に、若い頃は成功者による「成功の秘訣」も知りたがるものです。あくまで自分のやり方は変えずに、そこに成功者のやり方をミックスさせることによって成功の確率を上げようとする。やっぱ、誰でも成功したいのはもちろん、失敗が怖いですから当然です。
たぶんね、自慢話ばかりする老害、と思われている人にも、本心は自慢をする気などさらさらなくて、わりと純粋な気持ちで「成功の秘訣」を授けているつもり、なんて人も結構いると思うんです。
自分が若い頃に望んでいた成功譚を、気軽に話すことによって、より成功に近づいてもらいたい、という。ま、老婆心といえばそうなんだろうけど、悪意を持ってない場合も多いはずです。
もちろん中には「俺はこんな凄かったんだ!」と言いたいだけの、幼稚な大人もいますけどね。それは否定しません。
そういう幼稚な大人は除外するとして、同じ成功の体験談を語りながら、かたや成功譚になり、かたや自慢話になる。
その境目を探ってみようかと。
まず「どの程度の成功を収めたか」は関係ありません。
世界的な大企業の社長であろうが、町工場の社長であろうが、自慢話になるか成功譚になるかの話とは何の関係もない。
「たいして成功したといえないのに」なんて、成功の度合いという尺度を持ち出すとしたら、それは若者の方が幼稚なだけです。こういうのは相手にしなくていい。
若者とはいえ大人なら、いや違うな。何に取り組むにせよ本気なら、そんなしょーもないことに尺度を持ちません。役に立つ町工場の社長の話もあれば、時間の無駄としか思えない大企業の社長の話もあります。
ではどこで差がつくのか、ですが、ややこしいので野球に例えます。
2000本安打を記録するような大打者がいたとします。もしその大打者が「2000本もヒットを打った」ことにこだわるのなら、たぶん老害の自慢話にしかならない。
でも「ヒット一本打つことがどれだけ大変なことか」とか「長くレギュラーをつとめるためには」みたいな話なら、これは成功譚になりやすい。
しかしなりやすいだけで、失敗したらやっぱり自慢話になってしまう。
とにかく「努力した」という言葉は絶対に使ってはいけない。
「俺は夜明けまでバットを振り続けた。その努力の結果が2000本安打に繋がった」
これはダメな例。そこで言い方を変える。
「夢中でバットを振ってたら、気がついたら夜が明けていた。もしかしたら、それが良かったのかな」
くらいで止めなきゃいけないんです。
これは映画っつーかフィクションについての時に書いたけど、全部言ったらダメなんですよ。「努力した」ってのは、言葉にするんじゃなくて感じさせなきゃいけない。
映画でもそうでしょ。子供のために必死に働いている母親がいてね、何度もしつこく「母さん、本当に大変ね」とか「母さん、ありがとう」みたいなセリフが出てくる映画とか「見りゃわかるよ。うるせーよ」としか思わないでしょ。
言葉は弱いんです。野球でいっても、いくらコーチが口酸っぱくいっても、それよりベテラン選手が無言で黙々とバットを振ってる姿の方が響く。
言葉ではなく、会話の中で相手に想像させる。もし相手の想像が及ばない場合は、それはもうアドバイスなんかハナから無理なんだから。
アタシは数ヶ月イギリスに滞在していましたが、向こうに住んで感じたのは、イギリス人ってのは「超上から目線」なんです。と書くと悪いみたいだけど、そうじゃない。
上から目線じゃないよ。「超」ですからね。つまり相手が自分に尊敬の念を持ってるか否かは一切関係なく、簡単に変なプライドを振り回さない。素直に困った人に手を差し伸べたりする。つまり「俺つえー!」なんてしない。自分の方が強いのは当たり前だから誇示する必要がないのでしょう。
アタシが見た限りでも、日本人外国人問わず、本当に偉い人は「俺つえー!」とかしないですよ。中途半端な、自分に自信がない人間に限って「俺つえー」をやりたがる。
おそらく成功譚を若者に聞かせてやりたい、なんて考える人は、善人だと思う反面、上から目線度合いが中途半端なんじゃないでしょうか。
もっともっと上から目線になれば、もうコイツに自慢をしようという気すらなくなるはずで、結果的に話が成功譚になるんじゃないかと。