TBSの名演出家として知られる鴨下信一は演出家ではなく、アンソロジストになりたかった、といいます。
アンソロジストとは聞き慣れない言葉ですが、要約を仕事にする人、とでもいうのでしょうか。小説なら何百頁もあるものを数行に、映画なら数十本の作品を1本分程度の長さにまとめ上げる、そのプロになりたかったというわけです。
「岸辺のアルバム」や「ふぞろいの林檎たち」などテレビ史上に残る傑作を作った鴨下信一が面白かった仕事として挙げたのが「クレージーキャッツデラックス」というアンソロジービデオで、30本にも及ぶ東宝で撮られたクレージーキャッツ映画を「流れを一切切らさずに」繋げてる。
クレージーキャッツに興味がない人に説明すると、これ、実は名場面集ではないのですね。名場面集というには「ない」場面が多すぎる。
特に「ニッポン無責任時代」と「ニッポン無責任野郎」を「ダイジェストで一本の作品として見せてしまう」前半部は圧巻で、名場面集ではあり得ない「展開にのめり込める」という前代未聞のことを実現している。
しかもこのビデオ、綿密に構成を決めたのではなくて、なんと編集ルームで「あそことあそこを繋げて!」と全部口頭で指示を出したっていうんだから、正直ちょっと人間業とは思えません。
全世界で発売されている雑誌で「リーダーズダイジェスト」ってのがありましたが(日本版はとっくに廃刊)、ま、全部が全部ではないけど「本の要約」がメインになっている。
この雑誌が我が国で飛ぶように売れたのが終戦後すぐで、これを買うために行列が出来たといいます。
紙不足から雑誌や古本を含む本の価格が急騰し、娯楽に飢えていた人たちが「要約でいいから数多くの本に触れたい」という理由で買い求めた、らしい。当たり前だけど見てきたわけじゃないから本当はわからんけど。
でもね、アンソロジストとかダイジェスター(というのかね、ダイジェスト版を作成する人って意ね)ってのは、これはかなり特異な才能がいると思うんです。
才能のない、いやもう大抵の人はないのですが、そういう人の「要約」とか、耐えられない感じになっちゃうでしょ。要約になってないわ、ネタを割っちゃってるわ、そもそも単純に文章としてつまらない。
鴨下信一のような才人がめったにいないことは了解しつつも、仮にいたところで、プロとして成り立つか、いやそれどころかそれで食っていけるかっていえば苦しいと思うのです。
でも需要があることが前提ですが、特異な才能の持ち主には、やっぱそれ相応のギャランティが必要だと思うわけでね。だってアンソロジーとかダイジェストなんて仕事が必要ないとか、将来的になくなるとか絶対思わないもん。たぶんコンピュータが一番苦手とするような作業だと思うし。
なんかね、どうも「自分でモノを作ってない人を侮蔑する」雰囲気があるでしょ。音楽でいえば自分たちで作詞作曲してないバンドとか。「他人のフンドシで相撲をとる」なんて言葉もあるくらいだし。
しかしこれは絶対違う。自分で作ってようが他人に作ってもらおうが、問題は「ちゃんと自分たちのものになってるか」であってね。自分たちのものにさえなっていれば、全然構わないと思うんですがね。
何年か前にMayJが叩かれてましたが、あれはなんというか、「借り物臭」が凄いんですよ。全然自分のものとして消化できていない。あれだけ叩かれるのは気の毒だな、と思いつつ、商業歌手として一番重要かもしれない「この人が歌わないと意味がない」と思わせる才能はかなり欠如してるような、ね。(和田アキ子なんか逆に「それ」しかないんだよね。でも「それ」があるから商業歌手として成立するっていう)
さきの「クレージーキャッツデラックス」ね、あれ、実は鴨下信一名義じゃなくて変名なんですが、「鴨下信一のクレージーキャッツデラックス」というタイトルでも全然違和感がない。それは元となった映画を作った監督をはじめとするスタッフへのリスペクトを感じるからです。リスペクトした上で、何も足さずに新しく作り直している。
もし「クレージーキャッツデラックス?鴨下信一?所詮ヒトが作ったものを繋ぎ合わせただけでしょ」なんて人はまったくモノゴトを見抜く能力がない。
ま、いつの世も、何の能力もない人間ほど「批評」ではなく「罵倒」したがる、のかもしれませんがね。