別に格言めいた言葉にケチをつけようってんじゃないんです。というか、もしかしたら「情けは人の為ならず」と一緒で、誤用が定着しただけかも、と思ったり。
映画を題材にして似たようなことは散々書いたけど、とりあえず「とっつき」としては一番わかりやすいので映画を例に使います。
ま、映画であれ小説であれそうなのですが、フィクションを楽しむためには、たったひとつだけ才能が必要です。才能というほどなのかはわからないけど、逆にいえば、フィクションを楽しむのにまったく向いていない人がいるということになるわけで。
それは「細かいことが気になりだしたら、そればっかり考えてしまう」みたいな人です。
フィクションってのは現実じゃないし、対話じゃないので真相を問い詰めることもできない。ストーリーというものがある以上、たとえどんな「細かい疑問」であれ、無視して問答無用で進んでいきます。それでもDVDなんかで観てたら一時停止もできるけど、劇場で観てたらそれもできないわけで。
もうそうなったら「全体」が頭に入ってくるわけないんです。
フィクションってのはね、もう100%矛盾があると考えて間違いない。全部が全部辻褄が合うフィクションなんて絶対にあり得ない。ストーリーを見せる読ませるというのはそういうものです。
もちろんあまりにも整合性のない作品もありますよ。でも、途中で「あれ?」と感じたとしても、「まあいいや」で済ませることができないとフィクションなんて見てられないと思うわけで。
アタシは作品というものは、細部の積み重ねで全体ができる、なんて思っちゃいない。全体があって初めて細部が決まる、と思っている。
これは見る側もおんなじで、まずは全体像が掴めなければ細部なんかわかりっこないとすら思っています。
そういや手塚治虫が漫画の描き方みたいな本に「児童向け漫画は描き方が違う」みたいなことを書いてました。
例で挙げられていたのは、崖かなんかから自動車が飛ぶようなシーン。普通なら車の底部は影になってるんだから、詳細には描きません。つか描かないのがリアルです。ところが児童向けとなるとそうはいかないらしい。
「エンジンやらを描くのが面倒くさいから手を抜いてる」と思われると。だから児童向けにかんしてはリアリティは無視して描いた方が良い、と。
車の底部を描いたか云々は本筋とはまったく関係ない。でも子供はそういうことをものすごく気にする。児童向けだから手を抜いてる、みたいな発想になってしまう。
もっとそもそもの話をしましょう。
フィクションには絶対定型みたいなのがあって、人間同士の対立があって成り立つ、と思われています。
何でもいいんですよ。喧嘩や戦争みたいな直接的なことでもいいし、離婚調停みたいなものでもいい。とにかく「人間の敵対関係」が基本線になっていることは間違いありません。
ところが人間の対立が一切ない、とくに映画なんかではそういう作品が存在します。
もっともわかりやすい例でいえば、フレッド・アステアの映画なんか最たるものでしょう。
一応ストーリーはある。でもストーリーなんか完全に刺身のツマで、いわばダンスを観せるための前座でしかない。当然のようにストーリーとか整合性とかは、かなり「お座なり」です。
こういう映画は「見世物映画」といわれ、かなり侮蔑された時代があった。「人間の対立」が主軸になった映画がA級で、「見世物映画」はB級扱いされてきた。作品の出来や面白さは一切無視され、そういう分け方が通用していたのです。
A級映画とB級映画は、そもそも観方がぜんぜん違うのです。
百歩譲って、A級映画を観てて細部が気になって仕方がない、これはわかる。でもB級映画を観て細部が気になりだしたら、もう観方が根本的に間違えているだけなんです。
ところが世の中にはB級映画にすら、辻褄を求めようとする人がいる。洋画はともかく、邦画になると異様に厳しくなる。
「あんなところで急に歌いだすのは不自然」
「往来で踊りだすなんて、通行人の迷惑を考えないのか」
馬鹿馬鹿しいけど、本当にこういうことをいう人がいる。そしてアステアの映画なんかを「ラブストーリー」に分類したりする。
いやいや、一応そういう要素はあるけど、その分け方はおかしいでしょ。つか「見世物映画」ってもんを知らないのかね、と思う。アステアの映画もそうだし、アタシが敬愛する植木等の一連の作品だって、ラブストーリーとしてみれば、本当にうっすいうっすい作品ってことになってしまう。
世の中には頭をカラッポにして、ただ登場人物の動きや歌だけで楽しませる、そんな見世物映画があるんです。そこを無視して、主人公の行動原理が、とかいうからおかしくなる。
アタシはA級B級という分け方はともかく、どっちかっていうと見世物映画の方が本流だと思う。だって見世物は映画などの映像作品や舞台でしか無理だもん。人間の対立は小説でも漫画でもできるからね。
となると、魂は細部に宿る、という言葉は怪しくなってしまう。もちろん見世物映画にも細部はあるんですよ。でも細部っつーかこだわる場所が違う。少なくとも見世物映画の場合、整合性なんかは細部にすらならない。
それでも注視してほしいところだけこだわるんなら、もうそれは細部とはいえないだろうと。
何年前だったかな、東京現代美術館でやった特撮博物館に行った時につくづく思った。もう特撮美術とかね、見えないところはまったく作ってもないのです。というか人間の眼で見て、なんて完全に無視して、カメラに映った時にどう見えるかだけにこだわっている。それも等倍速で見た時に。
スローやコマ送りで見たらアラがあるのは当たり前なんです。そんなことははじめから考慮してないから。
細部はアラ探しじゃない。魂はそんなところには宿らない。やっぱ、魂が宿るのは、全体なんじゃないでしょうかねぇ。