アタシはファンサイトを開設するくらい、クレージーキャッツに淫する人間であります。
思えばかれこれ30年以上に渡ってこのグループを追いかけている。
しかしですな、アタシがこの摩訶不思議な存在に気づいた頃にはすでに、彼らはグループとしての活動はほぼしてなかったわけでして。
何故クレージーキャッツにハマったか、というよりは、何故1960年代を中心に活躍したこのグループを知ったか、です。
時代は1980年代前半、アタシが中学から高校にかけての頃の話なんですが、この頃までは深夜の時間帯には必ずテレビで映画を放送していたのです。それも中途半端に古いもの、そうね、だいたい15年前から20年ほど前のが多かった。
洋画でもいっぱい面白いものがあった。つか洋画の方が安定して面白かったんだけど、アタシが魅入られたのは邦画の方、とくに1960年代の東宝映画に激ハマりしたんです。
その中にクレージーキャッツ主演映画もあった。とにかく<邦画=辛気臭い>というイメージとは180度異なる、エネルギッシュな喜劇に感動すら覚えたほどでした。
本格的にクレージーキャッツにハマるのは大学に入ってからだけど、テレビの深夜映画で下地が出来たっつーかね。
クレージーキャッツに限らず、1960年代の東宝映画はアタシにとって特別なものだし、これは今現在のアタシを支配する趣味である「戦前モダニズム」への道筋だったとさえ思うわけで。
ただし1960年代の東宝映画なら何でも好きか、というと、苦手なものもあったりする。
例えば若大将シリーズ。いやね、別に加山雄三も田中邦衛もぜんぜん嫌いじゃないんですよ。なのにどうもこのシリーズがダメで。上手く言えないけど、もう「肌に合わない」としか言いようがない。
もうひとつ、まったく興味を持てないのが「ゴジラ」をはじめとする特撮モノです。
たまにスカパーとかで東宝特撮モノをやってたりするけど、これはやってたら見るんです。
って興味ないんじゃないの?ないですよ。ま、ながら見というか、まあBGV代わりでしかないんだけど。
やっぱり東宝のフィルムの色合いは好きなんですよ。だからつけておく分にはちっとも嫌じゃない。
でも特撮そのものは、まったくどうでもいい。宝田明とか夏木陽介が出てくるドラマパートですね、そこはいいんです。でも特撮シーンになると、画面を見なくなる。意識的にじゃなくて無意識に。
アタシはウルトラマン世代ではなく、仮面ライダー世代です。
「ウルトラマン」自体は円谷プロ単独製作で東宝は関与してないけど、言っても円谷英二はずっと東宝で仕事してきたし、当時は資本関係もあったし、フィルムの<色>とかはもう東宝そのもの、と言っていいと思う。
一方「仮面ライダー」は100%東映印っつーか1970年代初頭の東映でしか作れないケレン味とグロテスクさを内包している。東映は1960年代の終わり頃から石井輝男らがグロテスク映画をいっぱい撮ってたけど、子供向けの、しかも土曜日の19時半というゴールデンタイム中のゴールデンタイムに放送された「仮面ライダー」にもグロテスクが反映されているのがすごい。
アタシは完全に仮面ライダーで育った。つまりは幼少期までは東宝系人間ではなく東映系人間だったのです。
だから東宝系特撮に興味がない、円谷プロ作品を敵視している、なんてことじゃない。
たしかに東宝系特撮には興味ないけど東映であっても仮面ライダー以外にはやっぱり興味がない。それこそゴレンジャーとかの戦隊モノもぜんぜんだもんね。
しかも仮面ライダーとて厳しく言うなら1号2号編だけだし、甘めに言ってもストロンガーまで。それ以降は完全に興味ゼロです。
そんな人間が2016年に公開された「シン・ゴジラ」を観に行った。
ま、たしかにね、これは完全に大人向けだな、というのはあったし、テレビCMを見る限り、たしかに「東京にゴジラが現れた」みたいな臨場感は実現出来ているな、とは思った。
しかし「そもそも特撮に興味がない」人間には、それでは決定打にはならないんです。だってむしろ避けたいジャンルでさえあるんだから、余程の理由でないと観に行くわけがない。
アタシが「シン・ゴジラ」を観に行った最大の理由は「嫉妬」です。
といっても島本和彦みたいに「庵野よ!俺より(以下省略)」みたいな嫉妬じゃなくてね。つかそれは観た後の感想であって、観に行く理由にはならない。
嫉妬の理由、それは「シン・ゴジラ」が東宝本体で作られた、と知ったからです。
ずいぶん長い間、東宝本体で作るのは「ゴジラ」シリーズだけでした。しかし前のヤツがあまり興行成績が良くなくて、とうとう「ゴジラ」シリーズまで作らなくなった。
やれやれ、やっとアタシが興味のないゴジラから解放されたか、次はいよいよ、と思っていたら、結局ゴジラかい!と。しかも庵野秀明も樋口真嗣も、(少なくとも実写においては)結果を出していないのに。
それはともかく何がいよいよと思ったかというと、音楽喜劇ですよ。アタシにとって東宝といえば音楽喜劇の東宝ですから。エノケン映画やクレージーキャッツ映画を作ってきた東宝だから。
もちろん特撮モノも柱の一本であるのは理解している。だけれども特撮だけになるのはどうしても納得できなかった。
頼むから音楽喜劇も作ってくれよ!とね。
んで、映画を観た感想です。
これで音楽喜劇はさらに遠のいてしまったな、と。これ、最上級の褒め言葉なんですがね。
アタシ的にはかなりイマイチと思った「踊る大捜査線 THE MOVIE」(映画第1作)を観た東宝のエラい人が「ウチはなんでああいう面白い映画が作れないんだ!」と怒鳴ったといいます。
「踊る」シリーズは製作はフジテレビ、配給が東宝でした。だから気持ちはわかるけど、いやいや、あんたんところゴジラしか作らないじゃん、と思ったものです。
正直「踊る」の映画版シリーズと「シン・ゴジラ」は比較にすらなりません。もちろん「シン・ゴジラ」の方がはるか彼方に「上」です。
少なくともアタシがリアルタイムで劇場で(つまり封切り上映で)観た、ここ30年くらいの邦画の中では一番面白かった。こんな面白いものを作られたら、島本和彦じゃないけど「庵野よ!東宝本体で音楽喜劇が作られる可能性を潰すんじゃない!」と言いたくなりますよ。
さて、ここからはアタシのように「特撮映画なんかに興味がない」なんて人に向けて書きます。
はっきりいって、この映画を特撮映画に分類するのは、非常に馬鹿馬鹿しい。強いていえば「特撮入り」映画です。劇中にCGが使われてる映画なんか腐るほどあるけど、別にCG映画とか言わないでしょ。人間以外フルCGといわれる「ジャングル・ブック」でさえ言われていない。
もちろん怪獣映画でもない。怪獣は出てくるけど、あくまでこの映画でのゴジラの扱いは「得体の知れない<何か>」であり、謎の生物の解明こそが肝になっているからです。
じゃ何なんだ、となりますが、これはシミュレーション映画です。いや、徹底的に「好み」で事象を絞ってるから、やっぱ<趣味>レーションか。
「もし東京にゴジラが現れたら・・・」(大勢の人が指摘している通り、「ゴジラ」を「原発事故」に置き換えられるように、というか嫌が上でも喚起させる構成にしてある)というシミュレーションを、大真面目に、かつ緻密にやっているのですが、アタシが感心したのは「大真面目に、かつ緻密に」やってる閣僚の動きがすべてギャグになっているのです。
作戦会議のシーンは真面目なんですよ。でもそれがまるまる「閣僚あるある」になってる。ああ、もう、この感じ、他のどの国でもない、まさしく日本!というか永田町!と。
だからさっき「もし東京にゴジラが現れたら・・・」と書いたけど、正確には
「もしも~!東京にぃ~!ゴジラが現れたらぁ~!聞いてんのかさんまちゃん!オヨヨ!!」
と書いた方がニュアンスが伝わる。
ヒーローなんて誰もいない。主人公演じる長谷川博己だって、別にヒーローなんかじゃない。でも悪人じゃない。真面目なんだけど、本当の意味で全体を掌握できる人なんかいない。
全員が全員、不器用で、一所懸命で、ひとりじゃ何にもできない人しか出てこない。
これはね、<正しく>王道の展開なんですよ。
「弱者が力を合わせて困難に立ち向かい、目標を達成する」という王道展開がありますが「シン・ゴジラ」はまさしくこれに当てはまる。もちろん閣僚が「弱者」に見えるように、ゴジラが絶対的強者に見える描写があればこそ、なんだけどね。そしてちゃんと絶望なほど強いってのを表現しきれてるのが凄いのです。
つまりは正しい形で「王道」を利用しているわけで、万人が観て面白く感じるようにはじめからきちんと作っているんですね。
とまあ、ここまで絶賛気味に書いてきたけど、もちろん不満もあった。と言っても公開当時によく言われた「まるでルー大柴」のような石原さとみの扱いじゃない。個人的にはあれはあれでいいと思うんだけどね。
アタシがものすごく不満に感じたのはエンディングです。
なるべくネタバレなしで書きますが、ま、すったもんだがあって、一応は解決みたいな風になってね、それはいい。つか何らかの決着をつけなきゃフィクションとして成立しないし。
問題はその後です。いわばラストシーンといってもいい場面で、あれ、何で語らせちゃうかなぁ。せっかくすべての状況を「画」と「会話の応酬」で見せておいて、最後の最後に結局心情を語らせてしまう。
何かこれをやるから「ったく。だから日本映画はダメなんだ。これがハリウッドだったら」なんて言われちゃうんだと思うんです。
え?あれは某映画のオマージュ?んなことは1ミリも関係ない。大半の観客は某映画みたい、じゃなくて、船越英一郎と片平なぎさみたい、と思うんじゃないかと。んなことがやりたければ、冗談でも何でもなく、主役は全部船越英一郎にやってもらえばいいんです。いやマジでさ。
さっき「王道の重要性」について書いたばっかりだけど、クライマックスで心情をベラベラ語るのは王道じゃない。単に火曜サスペンス劇場とか土曜ワイド劇場のお約束です。
本当、そこだけがメチャクチャもったいない。あれさえなければアタシ的な評価は倍ほど上がったのに。アタシの評価なんかクソの役にも立たんけどさ。
それでもね、どうも、単にアタシが捻くれているだけかもしんないけど、ここまで指摘したような「王道をちゃんと活用している」だとか「土曜ワイドの下手な真似事をすんなよ」みたいなことを書いてる人が本当にいなくてさ。
別に他人の評価なんてどうでもいいけど、さっき書いたような「某映画のオマージュ」とか、そんなのばっかりだったんですよ。
アタシがとくに引っかかったのが「シン・ゴジラ」の論評にやたら「アイロニカル」って言葉が出てくることでして。マジで全員おんなじ人が書いてるんじゃないかと思ったくらい。
だいたい何だよアイロニカルって。吉野家コピペじゃないけど、本当にアイロニカルって言葉でないと言い表せないのかと問いたい。問い詰めたい。小1時間問い詰めたい。 お前アイロニカルって言いたいだけちゃうんかと。
というか、こういう言葉を使いたがるのはオタクの典型で、過去の「ゴジラ」シリーズとか「ガメラ」シリーズと比較して、「シン・ゴジラ」は何故ウケたか、みたいな視点しかないんです。
あのなぁ、関係なさすぎるだろ、としか思えないんですよ。これは「踊る大捜査線」がブームになった時も思ったけど、いくら小ネタを詰め込んだとしても、それと観客動員とは1ミリも関係ないんですよ。
小ネタは所詮小ネタ。いわば劇場まで足を運んでくれた人へのサービスなんです。でも問題は、どうやって劇場まで足を運ばせるかがでしょうが。
「シン・ゴジラ」が何故人気を呼んだか、これはかなり単純なんです。
さっき書いた通り、まず子供向けじゃなさそうだったから。これがひとつ。もうひとつがCGが自然で本当に東京の街並みにゴジラが出てきた雰囲気が出てたから。
これくらいしかない。でもこのふたつはちゃんと予告編でわかるようになっていた。これが重要なんです。
「あ?んなこと当たり前だろ、俺らはもっと深い分析をしてんだよ!」と言い返されるかもしれませんが、当たり前のことをまず指摘しないってどういう了見?別にブログなら構わないけど、カネもらって書いてるクセに、そこを無視しちゃダメでしょ。
そもそも本当に「深い分析」なのかも怪しい。どうもマニアックなことを書けば深い分析みたいに勘違いしている輩が多いけど、「あのシーンは○○という映画のオマージュ」とか「アンノの過去の作品の傾向からして」みたいなのが「深い分析」なの?
なんかね、ただの知識自慢にしか見えないんだけど。
「シン・ゴジラ」は歴史に残る大傑作かどうかはともかく、佳作であるのは間違いない。もちろんさっき指摘したような欠点もあるけど、それは傑作と呼ばれる映画でも欠点はありますから。
少なくとも「シン・ゴジラ」のおかげでアタシの中にくすぶっていた「特撮モノへの苦手意識」は若干和らいだ。んでアタシが渇望する、かつてのクレージーキャッツ映画のような音楽喜劇が作られないってのも納得出来た。
ただ同時に強烈な「特撮オタクへの苦手意識」も芽生えた。つか特撮に限らずオタクは視野が狭すぎるわ。
あー、やだやだ。オタクなんてロクなもんじゃないね。ってそれって同族嫌悪じゃなくて?と問われたら何も言い返せないのですが。