公開番組の罠
FirstUPDATE2016.7.5
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 テレビの制作方法のひとつとして公開番組というものがありました。

 バラエティ番組に限れば、日本ではテレビバラエティの始祖といえる伝説的プロデューサー・井原高忠が立ち上げた「九ちゃん!」が最初といわれていますが、意外と続かず、21世紀の今残ってる公開番組といえば「紅白歌合戦」をはじめとするNHKの一部番組だけで、しかもこれらはバラエティではなく歌番組です。
 バラエティの公開番組といえば、なんといっても「8時だョ!全員集合」で、これに続くのが「カックラキン大放送!」になるのではないでしょうか。しかしこれらの番組も1980年代の半ばには終了しており、それ以降は皆無とはいいませんし、劇場のサイズを無視すれば「笑っていいとも!」だって公開番組ともいえるんだけど、公会堂レベルの会場を使った公開バラエティはほぼ消滅してしまったといっていいでしょう。

 クレージーキャッツの番組で最初の公開バラエティは(単発を除くと)「植木等ショー」(TBS・1967年)になりますが、これは早々に挫折してすぐにスタジオ収録になりましたし、あくまで植木等の番組でクレージーキャッツの番組じゃない。
 次が「センリ婆さんのクレージー大変記」(NET(現・テレビ朝日)・1968年)で、桜井センリが中心、他のメンバーが脇という構成で、今も六本木交差点のほど近くにある俳優座劇場から中継されました。が、主役の桜井センリは毎週出てたものの、他のメンバーは常に全員が出ていたわけではなかったようです。
 となると全員主演の初公開バラエティは「ハイ!やりました」(NET・1970年)になります。

 クレージーの出演番組を調べてて、最も遺憾だったのが「ハイ!やりました」で、はっきりいって馬鹿にされてたとしか思えない。それほど酷い扱いでした。
 渡辺プロの会報誌「YOUNG」によると、当初は26回(つまり2クール)の予定で、構成として「日本一の裏切り男」などでお馴染みの佐々木守が参加しています。また赤塚不二夫デザインによる衣装(Tシャツとあるがトレーナーに見える)が用意されるなど、初の公開バラエティということも含めて、渡辺プロとしても、クレージーとしても非常に力が入った番組だったはずなんです。
 結果的に番組は8回で打ち切られ、まあそれはしょうがないのですが、ボクシング中継で2回も休止しています。しかも一回は日本人が出場しない、どころかタイトルマッチですらない試合で、です。
 内容的にもまったくクレージーにそぐわないもので、本ではボカして書いてましたが、当時NETといえば、もっとも場末のテレビ局で、そんなところでいくら人気が凋落気味だったといえ天下のクレージーがそんな扱いを受けた(凋落気味といってもまだメンバー主演の映画が公開されてた頃です)。これは渡辺プロとしては耐えられない屈辱だったはずです。

 何故人気絶頂だった「8時だョ!全員集合」を、TBSに恨みを買ってでも休止して「8時だョ!出発進行」(TBS・1971年)をスタートさせたか。当時は「ザ・ドリフターズとクレージーキャッツを二大コメディグループとして君臨させたい」という渡辺プロの思惑があったといわれましたが、もちろんそれは否定しない。
 でもこれは「ハイ!やりました」での屈辱とは切っても切り離せないはずです。
 ちゃんとしたスタッフとテレビ局でやればクレージーはまだまだやれるんだ。公開バラエティもクレージーはできるんだ。どうしてもそれを証明したかった。だからこそ渡辺晋直々に居作昌実の元を訪れ、クレージーの新番組をプレゼンしたんだと思うのです。

 渡辺晋と居作昌実のやりとりの中で特に重要なのは「半年経ったら必ずドリフをTBSに返す」と約束しているところです。もし単純に「ドリフとクレージーの二大コメディグループの構築」だけを目指すなら、「全員集合」の代わりに始めた「日曜だョ!ドリフターズ」をずっとドリフにやらせ(それは長年関係の深かった日本テレビへの義理立てにもなる)、「出発進行」をクレージー、という態勢を維持するのが一番いい。しかし渡辺晋は「半年だけ」と約束している。ビジネスで考えるとこういう約束は普通はしないものです。(そんなことを言い出したら人気絶頂の番組をプロダクションの意思で休止する、なんてことも普通はしませんが)
 渡辺晋としては、クレージーはやれるということを証明できればよかったのではなかったのではないかと。もっといえばNETへのあてつけかもしれませんが、それほど「ハイ!やりました」での屈辱、そしてNETへの怒りは深いものだったのでしょう。
 後々いわれるほど「8時だョ!出発進行」の視聴率は酷いものではなく、もちろん「全員集合」には足元にも及びませんが、それでも合格ラインをクリアしています。では何故後年大失敗と思われたか、それは「ハイ!やりました」の失態と重なってるのではないでしょうか。

 「スター誕生」と「紅白歌のベストテン」の件で渡辺晋と井原高忠が対立し、渡辺プロと日本テレビの蜜月関係が終了したといわれますが、その裏には渡辺晋のクレージーに対する深い情愛があったのではと思うのです。
 せっかく日本テレビにドリフを貸し出したのに、日本テレビも「半年という約束」を守ったのは、ドリフ番組は金がかかり過ぎると投げたのが原因といわれてます。このことが渡辺プロと日本テレビの間で亀裂になったのは想像に難くありません。
 ナベプロ関係のノンフィクションをいろいろ読みましたが、「ハイ!やりました」について触れてるものはまったくない。だけれども、もし1970年代に入って渡辺プロが凋落したとするなら、クレージーへの情愛からくる「ビジネスを度外視したやり方」があったはずだし、その基点は「ハイ!やりました」でなければならないと思うのです。

 しかし・・・基点となった番組タイトルが「ハイ!やりました」ってのは暗示してるよな、いろいろと。

「YOUNG」誌はねぇ、せめて1960年代の分だけでもすべて入手しなきゃな、とは思ってるんですよ。こればっかりは会報誌という性質上、国会図書館にもないわけだし。とはいえネットオークションにもあんまり出てこないんだよなぁ。




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