そんな名前のお菓子類が一時期流行ったような気がするけど、ま、気にせずに。
だからこそ「笑点」メンバーは、本来の落語より、アドリブに見せかけた筋書き通りだらけの「笑点」の大喜利の席にしがみついているのだ(日刊サイゾーの記事より)
これは
誰が「笑点」を見てるのか、よくわかんない。これだけアドリブなしのカンペだらけの番組なんて、聞いたことがない。大喜利には作家が10人くらいついていて、いろんな答えを作って、どれを誰に答えさせるかまで裏方が考えるってやり方。(立川)談志さんなんか、それが嫌で辞めたんだから
というビートたけしの言葉を引用した上で、笑点という番組の利権を批判した記事の、いわば締めの文言です。
アタシは正直、笑点利権なるものが本当にあるのか、仮にあったところで何の感情もありません。んなもん利権なんてあって当然のものだし。
しかしビートたけしの言葉はともかく(たけしはアドリブでのし上がった芸人なんだから、そう言わないと自己否定になっちゃう)、それを受けたサイゾー記者の文言には首を捻らざるを得ない。
これだとまるで「台本ありき=悪、アドリブ=正義」みたいになっちゃってる。
もちろん、そんなことはあり得ません。そしてアドリブが達者な人=優秀、アドリブが苦手な人=無能なんてこともないわけで。
ものすごく翻って考えます。
芝居、というものがあります。メディアは、映画でもテレビドラマでもステージでも何でも構いません。
言うまでもありませんが、すべての、とまではいいませんが芝居にアドリブが入る確率は非常に低い。細かな言い回しや「間」にはアドリブ的要素はありますし、一言一句台本通りではないにしろ、すべてはストーリーの流れに沿ったものであることは間違いないと思うわけです。
では上手い演技、とはどういうものでしょうか。
いやその前に下手な演技から考えた方がいいのかもしれない。
これは簡単です。「棒読み演技」というような批判の言葉があるように、一切感情も何もなく、ただただ台本を朗読しているかの演技は、まァ、大半の人がヘタクソだと思うことでしょう。
これを逆に考えてみます。
下手な演技が「台本の存在が見える」ものだとするなら、上手い演技は「台本なぞ存在していないかのような演技」ではないでしょうか。
これは言い方を変えれば「役者が登場人物になりきって、自分の言葉で喋ってる」かのような演技であり、さらに掻い摘むなら「まるでアドリブ」のような演技といえると思うんです。
歌舞伎以前の、様式美を大切にする古い芸能はともかく、現代で演じられる芝居のほとんどですね、は「まるでアドリブ=上手い演技」だといえると思うのですが、これは喜劇だろうが演芸だろうが、基本は一緒です。
漫才でさえ、よく出来たネタは台本がある。もちろん文字に起こされた形での台本があるとは限らないけど、漫才師の頭の中には確実にある。仮に脱線しても必ず台本に戻る。
しかし台本があることなど一切感じさせずにボケたりツッコんだりしているわけで、それがプロの芸です。
アドリブを発することができる、言うまでもなく、これは才能です。だからアドリブ芸を否定する気にはならない。
かといって「まるでアドリブ=質の高い芸」がアドリブ芸より下、なんてことはあり得ないんです。
笑点のメンバーは練達の人ばかりですから、ちゃんと「まるでアドリブ」をやっています。それこそ芸そのものであり、だからこそ視聴率も取れているんだと思う。
もし笑点のメンバーに「台本まるわかり」な質の低い芸人が入ったら、途端にすべてが崩れると思う。
だから先の日刊サイゾーの記事ね、あんなもの的外れもいいところで、芸ってもんが何なのかぜんぜんわかっていない。
筋書きだらけのっていうけど、それ否定しだしたらフィクションなんて成立しないのよ。いや、バラエティ番組すら成立しない。
というか、「まるでアドリブ=芸」という単純極まることすらわかってない人間が、したり顔でモノ書くなよ、とすら思ってしまうわけでね、ええ。