下駄の高さ
FirstUPDATE2016.4.25
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今回のネタも一旦ボツにしたものなのですが、読み返してみて、まァ、何とかイケるんじゃないかと。

さてアタシは「クレージーキャッツやエノケンは舞台が一番面白かった」って話を疑っています。もっとはっきりいえば、ウソだと思ってる。
だいぶ前ですが、生の演奏が如何に「下駄」になるかを書いたことがあります。
クレージーやエノケンがやってたミュージカル要素の強い喜劇はね、仮にまったく同じ台本で同じテンポでやったとしても、映画より舞台の方が面白くて当たり前なんです。それは彼らの舞台は生演奏が「あまりにも当たり前のこと」だったからです。
逆にいえば、生演奏という下駄が強烈なだけで、コメディアンとしての面白さや能力とはほとんど関係ない話なんじゃないかと。

舞台の下駄は何も生演奏だけじゃない。
寒々とした、というか閑散とした映画館で観る場合は別にして、満員の映画館で観た映画と、ひとり部屋で観るDVD(動画ファイル、でもいいけど)は、もう全然面白さが違う。満員の劇場で、場内爆笑の中で観た映画って、もう内容とか関係ないんです。面白かったって印象だけが残る。
翻って、ひとりで観るビデオは、逆に内容だけが映画の全印象で、下駄はゼロです。
映画だけでもこれだけ観る環境に左右されるのに、舞台ならさらに差が大きくなるのは当然のことでしょう。
ここには客観なんてもんは存在しないし、また必要以上に客観視する必要もない。だから生の舞台が一番面白かったって話自体を否定するものじゃありません。
でもそれがそのコメディアンの能力とか向き不向きっていう「評価」に関してなら話が違ってくる。
本当にちゃんと舞台特有の下駄を割り引いた上での話なのか?と。

かなり昔ですが、イッセー尾形が何でああ、映画やテレビドラマで活かされないのか、みたいなことを書いたことがあります。
当時アタシは「使われ方が悪い」的な結論にしたのですが、イッセー尾形の舞台はミュージカル要素が弱い(つか皆無)ので、クレージーやエノケンの舞台よりは下駄は薄い。しかしいくら薄いとはいえ、舞台だけが持ち得る下駄は確実にあるわけで、その辺を考慮せずに書いたことは悔いが残ります。
イッセー尾形など、語られることが多いっつーか、様々な人から語られることでさらにイメージやスケールが増幅された存在です。
しかしですね、アタシが知ってる限り「舞台という下駄」を最大限考慮した論評を読んだことがない。いや、イッセー尾形に限らず、舞台という下駄について論じたものすら、知らない。アタシの無知を棚に上げてるとはいえ、それでも「下駄があって当たり前なんだよ」とはなってない気がするんです。

何度も書いてるようにクレージーキャッツの映画もエノケン映画も、今見ると大半が面白くもなんともない。でもそれは「ギャグが古い」とか「やっぱり舞台でないと真価が発揮できなかったんじゃ」とかね、アドリブ(といってもセリフの付け足しだけじゃなく、客層を読んで微妙にテンポをズラしたりテンションを変える、なんてのもアドリブに含まれる)に強い役者やコメディアンは差異はあったとは思うけど、本質じゃないような気がする。ましてや「こんなギャグで笑ってたなんて、昔の笑いはレベルが低かったんだな」なんてことでも、もちろんない。
時代を経ることによって進化した部分は当然あるし、その時代ならではのギャグ(闇屋を茶化したギャグなど面白くなくて当然)もあるけどね。

それでもアタシは思うわけです。たぶん、もしタイムマシンがあって彼らの舞台を生で観たとしたら、そりゃ面白いと思う。でもそれはクレージーキャッツやエノケンに興味があるからで、全然興味がなくて醒めた目で、つまりまるで部屋でDVDを見るが如く純粋に内容だけ見たら、映画でのクレージーキャッツやエノケンと「面白さのレベル」は変わらない気がするわけで。
「映画は観たことあるけど舞台は知らない」というのは遅れてきた世代の言い訳です。

でも仮に舞台を観たことがなくても、映画だけ、それも部屋で、だったとしても「舞台の下駄」ってもんをちゃんと換算すれば、正解はわからなくても近似値は測れるんじゃないでしょうかね。







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