落語感覚
FirstUPDATE2016.3.26
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アタシは基本的には小林信彦の著作物は好きなのですが、もちろん氏の意見のすべてに同意できるわけがなく「これは違うんじゃないかなぁ」みたいなことは結構あるわけで。

たとえば氏は「大学で落語を覚えるなんて最悪」みたいに書いてますが、興味を持ったのがいくつかなんか全然関係ないと思うんですね。
植草甚一がジャズに目覚めたのは49歳の時です。が、けして「遅咲き」を感じさせない、数々のジャズにかんする名エッセイを残している。
そういうのは結局資質の問題であってね、まァその辺にかんしては小林信彦は偏屈だなぁと。
誤解がないように書いておきますが、アタシはけして偏屈を否定しない。むしろ老人は偏屈であるべきとすら思いますから。
理由は割愛しますが、モノワカリが良いトシヨリなんてね、ロクなもんじゃないですよ。

さて、アタシは氏が否定する、大学に入って初めて本格的に落語というものに接した人間です。
だからこそ余計にわかると思うのですが、結局落語にとって最大の心理的な壁は「時代劇」ということなんですよ。
さいきん、とある事情から浴びるように時代劇映画を観ているのですが、いくら観ても「慣れない」。時代劇に抵抗があるのは観慣れてないからだってのは、ありゃ嘘ですよ。
言ってもアタシは、少なくとも今の子供たちよりはもっと普通に時代劇を見てきた世代だし、前も書いたけど「必殺」なんか本当にハマったしね。
それでも現代劇と時代劇なら現代劇を取る。極端にいえば超名作の時代劇と、観る前から駄作確定の現代劇でやっと同等くらいです。

世代論は嫌いだけど、アタシら以降の世代が持っていると思われる、この「時代劇という壁」を舐めちゃいけないと思う。
落語は実際に接したら、面白いんですよ。普遍的な面白さだから世代は関係ない。
でもさ、やっぱ「落語って時代劇の世界でしょ?」ってだけで壁は出来る。当たり前だけど接しなければ面白さなんか永久にわからない。
かといって新作落語もね、あれはあれでイビツというか、現代が舞台になると今度は「着物を着て座布団に正座」というスタイルに違和感が出てくる。
そこら辺の違和感を「無いもの」にするには相当な能力っつーか、豪腕が必要になるわけで。
じゃ、ハナシは現代、スタイルは洋服にスタンディングとなったら、それはもう落語じゃなくなるし、入口にもならない。

ではアタシはどうだっかでいえば、です。
たしかに時代劇が苦手なアタシですが、落語にかんしてはこれがもう、信じられないくらいスッと馴染めたんです。
落語の本質は<イキ>とかじゃなくて、<空気感>、<間>、<小市民感覚>だと思っているんだけど、この感じ、ずっと慣れ親しんだものだなぁと。
それが「ドラえもん」だったんです。

ドラえもんというか藤子・F・不二雄の笑いの発想は主に落語から来ている、というのは以前書きましたが、実は空気感も間も小市民感覚も落語そのものなんです。
落語には基本的にツッコミはありません。何故かというとツッコミを入れることによって空気感と小市民感覚が壊れてしまうからです。
ただ「おい!」とか「違うだろ!」みたいなツッコミがないだけで、間と表情ではツッコミを入れている。
「ドラえもん」の「石ころぼうし」の回の最後のコマで、安堵しきるのび太の横で完璧に無表情を決め込むドラえもん、あれがあの漫画のツッコミなんです。

アタシがね、良い悪いは別にして、末期大山ドラと今のわさびドラに違和感があるのは、まったく落語の<間>じゃないからで、大袈裟な表情を作ったりするのが落語的ではない、ともいえる。
いわば藤子・F・不二雄の笑いの感覚からは逸脱しまくっているわけで、原作が好きな人間からすれば、いくらストーリー展開が原作に忠実だったとしても愛せない。つか興味を持てない。
誰もがとは言いませんが、アタシにかんしてはSF的感覚やストーリー展開の面白さが好きなのではなく、原作の落語感覚が好きなんだから。

だからもう、新作落語なんかよりドラえもんの方がよほど「落語入門」の役割を果たしていると思う。
きっとドラえもん(何度もしつこいけど原作に限る)で育った人の方が、一切ドラえもんなぞを読んだことがない人より、容易く落語に入っていけるはずです。
ドラえもんから落語は、時代劇という壁を越えなきゃいけないのはたしかだけど、そこさえ越えられれば一気にハマる可能性があるんじゃないかと。
こないだも電車の中でドラえもんを読んでる小学生がいたんだけど、もうホント、抱きしめたくなりました。いい本読んでるな、と。

この場合の「いい本」ってのはモラルがとか教育的とかじゃなくてね、笑いという娯楽の中心にいるものに「正しく」接しているって意味でね。







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