仮にこんな会話があったとしましょう。
「いやぁ、先月ケータイ代がえらく高くついちゃいましてね、それでカケホーダイのプランに入ったんですよ」
丁寧語で話してることからもわかるように、相手は目上、もしくはそこまで親しい人ではない、例えば取引先の人など、のようです。
要は「極めて親しい友人関係、または親兄弟の間柄ではない」と言いたいわけで。
この会話ね、ちゃんとした日本語として考えるなら、かなりおかしい。アタシは日本語の研究家でもなんでもないので、厳密なところはわかりませんが、ま、真面目に考えたら明らかにおかしな箇所がひとつある。
言うまでもなく「ケータイ代」ってところです。
漢字で書くと「携帯代」。これじゃまるで「何かを持ち歩くだけで料金が発生するのか」という意味に取れてしまう。
正確にいえばここは「ケータイ代」ではなく「携帯電話の通話通信費」ですね。
でも今の時代、ケータイ、といえば携帯電話のことでしかない。「ケータイっていうから携帯カイロのことかと思ったじゃないか!いいか、携帯ってのは何かモノを携帯する意味であって、携帯電話のことだけを携帯とカクカクシカジカハラホロヒレハレ」などとゴタクを並べても相手にされません。
しかも「ごく親しい、いくらでも馴れ馴れしく話せる」以外の相手ですら、別段何とも思われない。先述の会話のような場合です。
「あなた今、ケータイ代っておっしゃいましたよね。意味はわかります。しかし私たちの間柄でそんなフランクな言い回しが通用するとでも思ってるんですか!」なんていう人はいない。いたら確実に嫌われます。
何でこんなドーデモイーことを書こうと思ったかといえば、こういう例って、それこそ相当昔からあるんですね。それもケータイと同様「文明の利器」の発達で新語として生まれ、やがてどこに文句をつければいいのかわからないレベルにまで浸透していく。
文明の利器の新語で完璧に定着したといえるのは「電気」でしょう。
電気っつっても電力とかコンセントとか、そういうことじゃなくてね、いまだに「電気消して」とか「電気つけて」っていうでしょ。まさかこれも電気消してって言われてブレーカーを落とすヤツぁいないはずです。
もう、誰が何と言おうと、単に「電気」といえば照明のことです。なのに「照明消して」とは何故か言わない。いやいう人もいるだろうし、使う職種もあるかもしれないけど、アタシは「電気消して」という。間違っても「照明消して」とはいわない。
意固地とかそういう問題じゃない。むしろナチュラルすぎると思う。子供の頃からの習慣そのままでやってんだから。
何故「照明」が「電気」と言われるのか、これは比較的わかりやすい。電力が普及し始めの頃、一般家庭では電気といえば照明がすべての時代があったからです。
「電気=照明」なんだから、照明を電気といっても実用上は何の問題もない。「ショーメー」より「デンキ」の方が短くて言いやすいし。
そのうち一般家庭でも照明以外にも電力を使うようになってきた。炊飯器やアイロンなんかです。
それでも炊飯器は炊飯器、アイロンはアイロンなのに、照明は「電気」であり続けた。
もちろんアタシはこんな時代は知らない。アタシだけではない。祖父母が子供の時代でさえ照明以外の電化製品は普通にあったわけです。
よく日本語は他の言語に比べても難しい、といいます。
たしかに日本語は表現力が豊かですが、豊かを通り越してるとさえ思う。正しくなくても確実に伝わる「文脈」ではなく「単語」が多すぎる。こんなもんをまともに勉強しようと思うと、大抵の外国人は嫌になるってのはよくわかります。
もし外国人が日本語を勉強したいのなら、単語なんか一切覚えず日本式の英語発音と助詞と接続詞を覚えるだけの方がずっと日本人相手に伝わると思う。
「I love you」でいうなら、「アイはラブだ、ユーを」で十分伝わる。「アイ」の時は自分に、「ユー」の時は相手に指をさせば、さらに問題がなくなる。
これだって、おかしな日本語とか間違った日本語とはいえないと思う。単語を日本語にして「私は愛している、あなたを」なら、正しいかはともかく間違ってるとも言い切れないと思うんです。
日本語は許容範囲が広い。いや広すぎる。
「ケータイ」や「電気」のように「正しくもないけど間違ってもない」言葉が多すぎる言語です。しかも時代によってやたら言葉の意味が変わったりする。
なんかさ、間違った日本語で嗤う風潮があるけど、その間違ったと思ってた日本語がいつしか間違ってるとは言い難い日本語になる日も、来ないとは限らないと思うわけで。