正統か邪道か
FirstUPDATE2015.12.24
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 小林信彦著「喜劇人に花束を」の「第二部 藤山寛美」の章に、1964年に週刊文春誌上に掲載された、当時のコメディアンベストテンが、そしてこのベストテンが作られた経緯が書いてあります。
 
 小林信彦氏にとってこの時の出来事は強烈だったらしく、さらに「おかしな男・渥美清」でも詳細に述べられている。
 ま、ここまで氏がこだわるのなら、と、孫引きではありますが、週刊文春1964年6月22日号に掲載された「文春えんま帖・お笑いタレントを斬る」の芸人ベストテンを引用しておきます。
 
1位 榎本健一
2位 フランキー堺
3位 森繁久彌
4位 藤山寛美
5位 ハナ肇とクレイジー・キャッツ(筆者注・表記ママ)
6位 益田喜頓
7位 伴淳三郎
8位 渥美清
9位 三木のり平
10位 ミヤコ蝶々
<別格として>
・曾我廼家五郎(故人、筆者注・この時点で)
・小沢昭一

 
 こうして見ていただければおわかりのように、たしかにこのベストテン、何の基準もありません。<現役の>なのか<歴代の>なのかすらはっきりせず、人気、影響力、芸の能力、どれにもポイントを置かず、すべて曖昧なまま決めた、としか思えない。
 エノケンが1位、当時当代きっての人気者だったクレージーキャッツが5位(他全員個人なのに彼らだけグループとしてってのがまずオカシイ)、すでに故人であった曽我廼家五郎と中堅どころの小沢昭一(いくら喜劇映画に主演してたからといって新劇俳優のこの人をコメディアン扱いってのもね。石立鉄男や西田敏行がランクインしてるような違和感がある)が同じく別格なのもよくわからない、としか言いようがありません。
 
 ランキングは尾崎宏次(演芸評論家)、大木豊(演芸評論家)、谷村錦一(読売新聞の芸能担当)、そして小林信彦の4人による合議で決められたらしい。
 しかし実際に誌面に掲載された上記のランキングは文春記者と小林信彦がふたりで作り直したものであり、合議で決められたランキングはさらに偏向があった、そうな。(渥美清の名前は改訂版によって初めて入れられた)
 
 ま、ランキングの順位付け自体がムチャクチャ以前に、そもそも順位を付けたからといって「だから何なんだ」としか言いようがないのですが、それはさておく。
 で、栄えある、いや何も栄えない1位に輝いたのは、エノケンこと榎本健一です。
 アタシはずいぶん、現在見られる聴ける限りのエノケンの映画や音源を授受してきたつもりですが、戦前期ならともかく、1964年と言えばエノケンの晩年であり(1970年逝去)、すでに片脚を切断した後で歩くこともままならなかった時期です。
 そんな黄昏時もいいところのエノケンが1位なんて、リアルタイムで生きてなかったアタシが見てもおかしいのがわかります。
 もし「全盛期の能力」で比較するなら、すでに逝去したり名前が消えていた古川緑波やエンタツ・アチャコの名前も入れないと意味がない。
 
 エノケンが1位になったことについて、小林信彦は「オジサンたちのノスタルジー」だと切り捨てています。
 そう言いたくなる気持ちはわかるし、おそらくそれ以外の理由が見つけられなかったんだろうけど(実際、当時のエノケンは先ほど書いた通りですし)、しかし、はたしてそうなのか?
 もちろんそうなのかもしれないけど、その場にいなかったアタシが見るに、どうも別の理由なんじゃないかと思ってしまうわけです。
 
 先ほど、このベストテンに何の基準も見られない、と書きましたが、それでも選考した各人は各人なりの基準があったはずです。
 「ノスタルジー」というと「懐かしい」とか「面白かった」から、みたいな基準が浮かび上がる。でもさすがにそんな個人的感情をさらけ出すか?それって「オレは○○ってコメディアンが好きだから、何がなんでも○○を1位にする」って言ってるのと変わらない。このベストテン選出がいくらいい加減なもんかもしれないとはいえ、それはないんじゃないかと思うんですね。
 
 それより「オジサンたちの」基準が「エノケン」だった、とした方が単純明快です。
 エノケンが基準とするなら、エノケンはバリバリの正統派ってことになる。そしてエノケンの範疇からはみ出たことをやってるコメディアンは邪道ということになる。
 「今のエノケンが面白いかどうかはさておき、今の邪道なコメディアンをエノケンより上に置くわけにはいかない」という心理が働いた。
 これなら、まァ、納得できるのです。
 
 正統か、邪道か。
 この正統邪道の問題はかなり根が深い。というか、ものすごく難しい問題です。
 何故難しいか、それは正統邪道の脳内での<仕分け>は、まったく無意識のものだからです。
 正統だから論じよう、邪道だから論じるに値しない。こんなことを考えてるんじゃないんですよ。
 無意識に、正統と認めた者(物、でもいいけど)のことは「論じたくなる」し、邪道だと思った瞬間に頭から消えてしまう。そんなものに触りたくもない、と、しつこいですが<無意識>に峻別しているのです。
 
 この時「オジサンたちのノスタルジー」に呆れかえっていたはずの小林信彦氏も、彼なりの正統邪道の基準が見え隠れしている。その証拠にあれだけ人気面で席巻した明石家さんまやダウンタウンには何の言及もしていない。たけしやとんねるず、爆笑問題には度々言及しているにもかかわらず、です。(とくにダウンタウンにかんしては不自然なまでに名前を出さないようにしている)
 
 氏は「日本の喜劇人」の中でトニー谷を邪道扱いしていますが、氏にとってトニー谷は正統派の中の邪道であり、さらに外れたさんまやダウンタウンは論ずるに値しない、ということなのでしょう。
 いや、別にそれは構わない。誰もその基準を非難すべきではありません。
 しかし志村けんが逝去して、東八郎に憧れていた、というような報道を知って、突然、志村けんの評価をはじめたのは節操がなさすぎる。
 そもそも氏はドリフターズもまったく評価しておらず(ただし触れてないわけではなく一貫して低評価なだけですが。ま、氏の基準で言えば「正統とは認めつつも低レベル」ということなのでしょう)、この手のひら返しはさすがに酷い。
 いや、それこそ追悼番組などで志村けんの芸を見て、とかならぜんぜんいいけど、志村けんが喜劇人の系譜を追っていたっていう理由でってのは氏の正統邪道の概念を垣間見るようで不愉快だった。
 
 とか書いてるアタシも、どこかに正統邪道の判断基準がある。
 コメディアンだけに限らず、映画でも小説でも漫画でもね、あらゆる文化にたいして「これは正統」(=論ずるに値する)、「これは邪道」(=論ずるに値しない)と分けている。
 もちろんまったく無意識ですよ。無意識だからこそタチが悪い、といえるのかもしれないけど、これはそう簡単に変えようがないような気がするんですね。
 パロディなんかはとくに難しく、数年前「おそ松さん」のパロディがやりすぎか否かで話題になりましたが、パロディ元の作り手の方からクレームがきた場合は除いて、どこまでやってもいいものかの裁量は個人の正統邪道の基準に委ねられるような気がする。
 
 さて、あれはアタシが大学生の時だったか。
 サークルの部室でね、先輩のひとりが「これ、今度デビューする人らのサンブル盤やねん」とCDをかけた。
 
♪ チャッチャラッチャッ ラーチャッチャッ チャッチャッチャー<スチャダラパー!>
 
 こんな口三味線の文字起こしじゃぜんぜんわからないだろうけど、この箇所の<音>は我が敬愛する植木等の名曲「無責任一代男」のオープニング部分です。そしてこのCDのアーティストは、ま、自ら名乗ってますが当然スチャダラパーです。
 
「お前、クレージーキャッツ好きやから、わかるやろ?」
 
 いや、わかるよ。わかりますよ。その後のラップっつーかヒップホップはまったく詳しくないのでよくわからんかったけど、そこだけはわかる。
 これからデビューしようとせん新人アーティストが「無責任一代男」の曲の一部を使っている。しかし「うわーっ、面白いなぁ」でも「こうやって大好きなクレージーキャッツの曲を使ってくれて嬉しい」でもなかった。
 ひと言で言えば「いいの?」だった。正確にはこんなことしていいの?というか。
 
 ヒップホップにおいて(もう今となってはヒップホップに限らないけど)、サンプリングという手法は目新しいものではありません。
 スチャダラパーがこの時点で新しかったのは「無責任一代男」や「太陽にほえろ!」のテーマ曲といった大衆的な楽曲からサンプリングしたことなんだけど、ヒップホップに疎い当時のアタシは、正直に言うなら「インチキくさい」というものでした。
 
 自ら楽器を奏でない、サンプリングによるトラックへの違和感はなかなか消えなかった。
 だいぶしてからアタシもダブ(さすがにダブの説明はパス。正確に出来る自信もないし。ま、ヒップホップのレゲエ版くらいにお考えください)をやるようになってから徐々にではあったけど認識が変わった。
 でも、もしそういうことがなければ、もしかしたら今もヒップホップやダブを「インチキ」=邪道、と思っていた可能性もあるんです。
 
 これは「オリジナリティとは何ぞや」という問題なのかもしれないけど、著しくオリジナリティを感じづらいものには、どうしても邪道という判断をしてしまいがちです。
 それこそMay J.なんか「何を歌ってもカラオケ」と散々叩かれたけど「上手さ=芸」への評価はほとんど成されず、ひたすらオリジナリティの無さ、という一点のみを叩かれたのです。
 モノマネなんかもそうでしょう。モノマネだって本当は立派な芸だし、オリジナリティがある人はあるんだけど、どうしても贋作とかイミテーションとの境目が難しく、本芸とは認められづらい。これは日本に限らず諸外国でも似たようなものだといいますし。
 
 正統だからいいってことじゃない。邪道だからダメってことでもない。でも一度邪道と認識してしまうと評価の対象という場にすらのぼれない。だから何かを評価する時に「評価できないのは邪道という概念が強いからではないか」というのを必要以上に留意する必要があるんじゃないでしょうかね。

どうしても小林信彦氏の考えには相容れないところがあるので、基本的には<悪く>書いてるのですが、いってもアタシは氏の著作を数十冊持っているので、ファンはファンなんですよ。
というかさ、アタシも関わらせてもらった「植木等ショー」関連のDVDや書籍に氏が触れないのは・・・ああ、これ以上は止めておく。




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