アタシはブログをやるにあたって「見てない聴いてない読んでないものをイメージで書くのだけは絶対にやめよう」と、それだけは固く誓っています。誰に?
でも、どうにも例外というものがあるのでして。
以前、火の鳥の太陽編を「これで終わりかと思うと、もったいなくて読めない」みたいに書いたけど、今回は反対というか「どうしても見る気になれない」もののことを。
アタシが戦前モダニズムに入れあげていることは何度も書いているし、芸能の世界において代表格といえる古川ロッパのことも何度か書いています。
戦後、人気が凋落した古川ロッパは「突然」といった感じで映画監督にチャレンジしています。
特に戦前の絶頂期においてロッパは映画監督をやってみたいという希望を持っていたようですが、実際に初監督作品に挑んだのは終戦から10年も経った(1955年)、まあ晩年のことです。結果としてそれが最初で最後の監督作品になったわけなんですが。(どうも1952年頃に小林一三の意向でロッパを監督として起用する、という話はあったみたいだけど、この時は何故かポシャっている)
しかし、どうも、この映画を観る気がしない。
チャンスはなくはなかった。たまにですが名画座で上映されているからで、でもアタシは足を運ばなかった。
理由はタイトルにあります。
そのタイトルは「陽気な天国」。これを考えたのがロッパなのか製作の近江俊郎なのか知らないけど、センスが完全に戦前のセンスです。つか戦前の有楽座です。
ロッパの評伝の題じゃないけど、まさしく「哀しすぎるぞ、ロッパ」です。あまりにも時代錯誤なタイトルを聞くだけで、というかアタシは全然構わないんだけど、当時の人が時代錯誤なタイトルをせせら嗤ってたような気がして、こっちまで悲しくなってくるのです。
昨年(現注・2014年)、ロッパが晩年に「あまから」という雑誌に連載していた食エッセイが完全版の形で文庫化されましたが、これは本当に面白い。晩年というのを感じさせないし、感覚のズレも見られない。
でも「笑いの感覚」だけは、完全に戦前で止まっている。仮に他の人発案だったとしても「陽気な天国」というタイトルを受け入れた時点でそれはわかる。まるでアムロのオヤジです。別にロッパは酸素欠乏症じゃないんだけど。
さてもうひとつ。
アタシはモノクロ時代の黒澤明作品ってだけで愛してしまえるような人間です。一般には凡作といわれる「醜聞」ですら、それなりに楽しかったし。
しかしどうしても観る気にならない作品が一本だけある。それが「静かなる決闘」です。
予告編は見たことがあるし、粗筋も知ってる。でも粗筋を知ってしまったばかりに逆に観る気がなくなってしまった。
この作品をひとことでいうなら「梅毒にかかってしまったためにセックスができなくなってしまった男の苦悩を描く」ってことになりますか。
昨今は禁欲を題材にしたアダルトビデオ(CFNMというらしい)なんかもあるようですが、他動的に禁欲を強いられるはめになった男の苦悩を「真面目に、真正面から描く」なんて作品は、いくら黒澤明ブランドを絶対視していたとしても、あまり見たい題材じゃない。それだったらまだエロに振ってくれた方がいい。
当時の医療技術からすれば当然なんだろうけど、「梅毒だから」「一切セックスが出来ない」ってのも、なかなか現代人には理解し難いし、だいいちね、ほとばしるほどの男性的魅力に溢れた三船敏郎が「セックスできない男」を演じるってのは、これまた悲しい。「哀しすぎるぞ、ミフネ」です。ミフネは哀しかないけど。
前にも書いたけど、面白そうか否かは意外と映画を観る基準にはならないんです。それよりも好きか嫌いかの方が重要で、「陽気な天国」も「静かなる決闘」も、少なくとも観る前の時点で「好きになれるかも」とは思えない。
いずれ、もう余生を送る段階になってね、本当に何も観るものがなくなったら観るかもしれないけど、能動的に「好き」を探せる今現在はちょっと、ね。
まァね、そんなこといいながら、あっさり観たりするのもアタシなんだけど。