特定の職種に就きたい場合「弟子修業を経なければならない」という過程が必要なことがあります。
ま、昨今は多種多様の養成機関があるので、弟子修業が必要な職種も減ってるみたいですが。
例えば芸人などはダウンタウン以降、養成機関上がりの人が増えましたし、むしろ今は弟子修業をしてきた芸人の方が少数でしょう。
ただし噺家、では中にはわからない人もいるかもしれないので丁寧に書きますが、まァ落語の世界ですね、ここだけは正式に入門、つまり師匠と弟子という関係が必要になる。落語家になるための養成機関はありませんし、「正式な<型>はないが、伝承は必須」という芸の性質上、今後においてもそのような機関は作られないはずです。
となると、噺家として大成するには、いや大成を願わないまでも一人前としてやっていくには「誰を師匠に選ぶか」はきわめて重要なことなのです。
明石家さんまが笑福亭松之助に弟子入り志願に行った際、何故自分を選んだかと問われた杉本高文少年(もちろんのちの明石家さんま)の答えがふるっていた。
「あんたはセンスがある」
何しろさんまのエピソードなので<盛って>あるのは確実でしょうが、松之助も同じことを語っているので、おそらく似たような発言をしたのでしょう。
それにしてもさんまが松之助を師匠に選んだのは慧眼で、さんまの芸風はまるまる松之助に準じている。それは松之助の「テレビアラカルト」というネタを聴けば嫌でもわかります。
にとどまらず、その時その時の<笑い>がすべてであり、芸を残すことにまったく執着していない、といった「芸人としての生き方、在り方」も松之助に倣っており、それは明石家さんまという芸人を成長させるには最適なものだった、とあらためて思うわけで。
ただ松之助とさんまのマッチングが良かっただけで、松之助が「師匠として(≠芸人として)」特別優れているわけではない。実際松之助はさんま以外を上手く育てられていないわけだし。
そしてさんま自身も弟子を取っていない。ジミー大西を我が弟子のように育てたことはあるけど、自分が師匠として正式な師弟関係を結んだことはありません。
おそらくさんまは「売れない兄弟弟子」を見ることがしのびなかったんだと思う。当然「伝承に向く芸」(落語など)をやるタイプではない、というのもあったんだろうけど、それよりも「才能もないのに芸人を続けるのを可哀想」だと思ったんじゃないかとね。
さんまは言うまでもなくフリートークの達人です。しかし同じくフリートークの達人であり、さんま同様本職であるはずの落語をほとんどやってなかった笑福亭鶴瓶は、ちょっと取りすぎなのではないかと思えるほどの数の弟子を取っているのは不思議な感じがします。まァ、この辺は微妙な人間性(つか考え方)の違いなんでしょうが。
松之助と鶴瓶の師匠である笑福亭松鶴は兄弟弟子ですが(松鶴が兄弟子)、その育成法は通じるところがあります。
たしかに松鶴は理不尽な<シゴキ>もあったと言いますし、一方松之助は対等に近い。それでも基本は「あまり型にはめずに自由にやらせる」ってのは共通している。だから鶴瓶やさんまのような一種の狂人が育ったんだろうな、とは思うんです。
しかし逆に考えるなら、狂人でなければ育たないと言えるのかもしれない。というか鶴瓶やさんまほどの才能を有していれば、誰が師匠であろうが育ったはずで、松之助や松鶴の「育成面」の功績を過大に考えてはいけないのではないかと。
そこで、優秀な、というと語弊があるけど、師匠に向くのはどんなタイプなのかを考えたいと思います。
ここでせり上がるのが桂米朝です。
米朝が逝去した際、とっくに引退していた上岡龍太郎が記者からの質疑に答える形で「いろんなタイプの弟子を育てた」というようなことを語っていましたが、米朝の弟子の人材は実に幅が広い。
何故米朝はいろんな才能を育てることが出来たのか、です。
その前に桂米朝の<凄み>を書いておかないと始まりませんので、そこから始めます。
桂米朝は博識で知られてました。では何故博識といわれるほどになったかといえば、これは上方落語界復興と大いに関係しています。
ひとくちに「落語」といえば江戸落語を指すもので、上方落語は長い間存亡の危機に瀕していました。
没落に瀕しているものを復興させるには、幅広い「ファン層」と幅広い「人材」が必要になる。実際、上方落語を残していくためにかどうか、つまり意識的だったかどうかは知りませんが、米朝は「圧倒的な知識量」で上方落語を復興させたのです。
米朝は徹底的に噺のディテールにこだわった。何気なく演じられている場面も、落語の舞台となる江戸時代の上方の様子を調べ上げて、インテリ層が納得できる情景描写を紡ぎだした。これがファン層の拡大に繋がった。
とか書くと誤解されそうです。博識ったって伝統文化とかそういうことなんだろって。
しかしですな、上岡龍太郎や筒井康隆との対談本を読めばわかりますが、笑いそのものに対する知識も凄いものがありました。漫才をはじめ国内外のコメディ、コメディアンのことも詳しかった。
例えばエノケン一座の幹部に中村是好という喜劇役者がいましたが、あの芸名は明治から大正にかけて満鉄の総裁や東京市長をも務めた中村是公から取ったのではないかと。もちろん米朝とて推測でしかないんだけど、中村是<好>のことも、中村是<公>のことも、知識だけではなく近しい感覚がなければ両者を結びつけることは出来ないと思うんですよ。
こうした「圧倒的な知識量」は確実に弟子の育成の役にたったはずです。そして知識量というのは説得力に繋がるんです。
弟子なんて理不尽な目に遭うのは当たり前だというような風潮がありますが、これだと「ただ忍耐強い」人間だけが残る。しかし忍耐強さと能力とはまったく別ですからね。
ましてや米朝のような博識にして<温厚>な人に付くと、まず師匠に気に入られようみたいな媚びを売る必要がない。機嫌を取らなきゃいけない、みたいな発想が消えるからです。
しかも博識だからもっと話を聴きたくなる。尊敬すると同時に師匠といる時が楽しくなる。するとますます敬愛の念が出てくる。
師匠の側も弟子が「自分の芸の伝承者」という感覚がないので、どのようなタイプの人間も育てられる。知識量が豊富なので弟子に合わせて話の内容を変えられる。「感情的になると座がシラける」=自分にとって嬉しくない空気になると知ってるので、ますます温厚になる。すると空気が良くなってどんどん弟子が伸びる。まさに素晴らしいスパイラルです。
いわば桂米朝は「理想の師匠」と言えるのかもしれない。しかしもうひとり、米朝同様「博識にして温厚」と言える人を挙げたい。それが山本嘉次郎です。
山本嘉次郎。トーキー黎明期から日本映画界を支えた大監督です。ま、小津安二郎や成瀬巳喜男、溝口健二あたりと並び称されることはないのはメインフィールドが娯楽映画だったからかね。
しかし、とくに日活から新興映画会社だったP.C.L.に移ってからの仕事ぶりはすざまじく、のちの東宝映画の礎を作ったのは間違いなくこの人です。
榎本健一を主演に迎えて作られた音楽喜劇、のちに特撮の巨匠となる円谷英二と組んだ特撮アクション劇、さらに戦後にはサラリーマン喜劇の嚆矢となる作品を作るなど、まさに山本嘉次郎なくして東宝カラーなし、と言える存在なのです。
この人がある意味不幸なのは、あまりにも優秀な弟子を育てすぎたために自身の功績が目立たなくなってしまった、というのもあるはずです。
<世界のクロサワ>と書くだけで通じる黒澤明や、「ゴジラ」などの特撮劇の名手であった本多猪四郎、アクション映画を撮らせたら抜群だった谷口千吉、さらに早逝したため名前は残りませんでしたが、黒澤明に「山本嘉次郎の正統後継者」とまで言わしめた、音楽映画で才能の一端を見せていた伏見修など、まさに人材の宝庫を作り出していたんです。
黒澤明は画家になることを夢見ていましたが、偶発的要素から映画会社であるP.C.L.に入社します。
最初に助監督としてついたのは「処女花園」という作品ですが、監督とソリが合わず退社しようとしたらしい。ま、もともと「何がなんでも<カツドウヤ>になりたい」と思って映画業界に入ったわけではなかったので、当然っちゃ当然です。
しかし慰留されて思いとどまり、次に助監督についたのがエノケン主演の音楽喜劇(「エノケンの千万長者」)でした。
この作品の監督が山本嘉次郎で、山本嘉次郎は入社したての黒澤明のアイデアを取り上げるなど対等に接したらしい。
この件以来、黒澤明は山本嘉次郎に心酔した。山本嘉次郎の博識ぶりは有名であり、このことも黒澤明が心酔する理由になった。
また<才気溢れる>若き日の黒澤明を山本嘉次郎は非常に可愛がり、単に映画作りのイロハだけではなく「映画を作るのはかくも面白いものなのだ」というね、いわば<魂>を教え込んだんです。
一見、黒澤明が山本嘉次郎から受け継いだものは少ないように思う。ダイレクトに影響を受けていると思えるのは、甘めにいって「コメディアンを扱うコツ」と「音楽(劇伴)の有効な使い方」だけに思える。
しかし本当はかなり根深いところで強い影響を受けているのです。
例えば「生きる」でいきなり葬儀シーンに飛ぶのは、かつて山本嘉次郎から「映画とはこういうものだ」と教わった、とあるエッセイの一節が蘇ったからだと言われています。
作風はまるで違う、しかしその魂は確実に受け継がれている、という点を考えれば、弟子たちの芸風はまるで違う桂米朝とまったく一緒、と言い切れるはずです。
桂米朝と山本嘉次郎は俯瞰で見るとかなり違います。
晩年に至るまで重鎮中の重鎮として上方落語の発展に尽力した桂米朝、一方山本嘉次郎は戦後になって体調を崩し、ハードワークな監督業からは一線を退いて主に脚本家、そしてテレビ黎明期にはタレントとして活動した。しかも亡くなったのが1974年で、すでに盟友の榎本健一はこの世を去っており、愛弟子の黒澤明は苦境に立たされていた頃だったのもツイてない。そう見れば晩年は不幸、は言い過ぎとしても恵まれていたとは言えないわけで。
だから普通は桂米朝と山本嘉次郎を並べては語らないんだろうけど(そもそも噺家と<カツドウヤ>、つまりまるで職種が違うんだし)、それでもこのふたりの共通点である「博識にして温厚」があったからこそ、上方落語と邦画が大いなる発展を遂げたって考えるなら、やはり同列で語るべきだと思うんですがね。