いや、「シカゴ」は何度か日本版の舞台が上演されているし、近年でも宝塚歌劇でやってる。
でもアタシがロンドン版「シカゴ」を観た限り、そういうんじゃないと思うんです。
誤解を恐れずにいえば「歌とダンスがたっぷり詰まった、長いコント」みたいなものです。「歌とダンスがたっぷり詰まった、舞台じかけのない「8時だョ!全員集合」」といえなくもない。(2011年9月13日更新「シカゴ!シカゴ!シカゴ!」より)
てな作品を真面目というかちゃんとした役者でやるべきじゃないと思うのです。
となると、「シカゴ」をやるもっとも相応しい劇団は、どう考えても吉本新喜劇です。
は?と思われるかもしれませんが、少なくともロンドン版「シカゴ」は、「音楽という装飾」を取り除けば吉本新喜劇と寸分違いがないのです。
まずストーリーらしいストーリーがない。とまでいえば語弊があるけど、至極単純なハナシです。いや、ストーリーを咀嚼できようができなかろうが、感じる面白さにさほど差がないのです。
ギャグも舞台だからこそ通用するトリッキーなものが多く、バーバルギャグ(言葉によるギャグ)も英語が弱いアタシでさえ理解できるものが随分入っている。
本来バーバルギャグはその国の歴史とか文化が頭に入ってないと笑えないものですが、「シカゴ」の場合、各国で上演されることを念頭に置いているせいか、その手のギャグはほとんど入ってないのです。
この辺はまさに吉本新喜劇と通じます。(吉本新喜劇は各国での上演は念頭に置いてないだろうけど)
つまり吉本新喜劇に「音楽という装飾」を施せば、まるまる「シカゴ」の空気感になるという。
正直吉本新喜劇のメンバーがどの程度歌えるかは把握してないのですが、主要キャストを考えるなら
・ロキシー=友近
・ヴェルマ=未知やすえ
・ビリー=小籔千豊
あたりでピッタリくる。
とにかく「歌う場面が多い」こと以外は、まったくいつもの吉本新喜劇のムードでやればいい。
「シカゴ」ってのもアメリカのシカゴではなく、愛宕をモジッて「鹿宕=シカゴ」とかね。
原作の舞台は1924年とかだけど、日本版として翻訳するなら1950年前後が適当でしょう。戦後の混乱期なら、あの無茶苦茶な設定も説得力がでる。
ま、唯一違う点を挙げるとするなら、「シカゴ」はツッコミがないんです。
吉本新喜劇は座長がツッコミを兼ねるケースが多いのですが、まあその辺は演じる側に違和感があるかもね。
結局咀嚼ってそういうことだと思うんだけどね。海外で上演されている雰囲気を丸ごと持ってきたいのであれば、もうそれは向こうのキャストを連れてくるしかないからね。
でも開き直って日本版を作るなら、あれって一種のヴォードビルショーでしょ?だったら吉本新喜劇が適任じゃね?みたいな発想で作って欲しいと思うわけで。