さすがに「ドラえもんでブラック要素がある話はAが作ってる」なんて誤解は、F作のSF短編の存在が広まった今(「怒り新党」で取り上げられるくらいだし)消滅したといっていいと思うのですが、まだ誤解が解けてないことがあると思うんですよ。
つまりはその逆ですね。
Fといえば自嘲気味に「すこし・ふしぎ」としたSFが代名詞になっています。SFだけではなく冒険譚(いわゆるアドベンチャー物)、怪奇譚(ホラー)、落語にも強い。つまりブラックな要素はそれらの中にも当然含まれているわけです。
ではAはどうでしょう。
「人間を描くことが一番面白い」と語っていますが、あえて「ブラック」という言葉を使わないなら、もっぱら人間の弱さや欲望にスポットを当てた作家、と捉えられていると思います。
そうなってくると、当然代表作は「笑ゥせぇるすまん」になるのですが、どうもね、これがしっくりこないんですよ。
たしかにギャンブルシリーズや「黒ベエ」、喝揚丸などは面白いし、アタシも大好きです。でもこれは、どっちかっていうと、レコードでいえばB面だと思うんです。
A面はやっぱり「怪物くん」や「忍者ハットリくん」でなければならない。ではこれら、A面の作品で「人間の弱さや欲望」が描かれているかといえば、皆無とはいわないけど少なくともメインテーマではありません。
FがSFだけに限らないように、Aにも多様性というか造詣の深いことはいっぱいあるのです。というか、少年期から青年期まで、ほぼ同じ体験してきたFとAは、ベースになってる部分はほとんど一緒でなければおかしい。
つまり何が言いたいかといえば、AにもSFマインドがあるぞ、といいたいのです。
そもそも別々に執筆するようになってから最初にSF的作品を連載したのはAの方(「ロケットくん」)であり、「海の王子」ではメカも随分デザインしています。
そっちの方向にいっても手塚先生や藤本氏には敵わないからSFを描くのをやめた、というようなことをAは語っていますが、モロSF、をやめただけで、SFマインドまでは消しようがない。これは赤塚不二夫にも同じことがいえます。
Fは可能な限り、科学的根拠を説明しようとしますが、Aはそんなことはしない。でもね、まったく科学的根拠を考えずに描いてるかといえばそうじゃない。
「プロゴルファー猿」の技も「ギリギリ実現不可能、でも将来的にはどうなるかわからない」レベルですが、作中でいちいち「旗包みはこういう理論で可能なんですよ」なんて説明しないでしょ。だから誤解されやすい。
これは前も書きましたが、「マボロシ変太夫」なんかSFマインドがなければ絶対に描けない。途中で放棄したのは、収拾がつかなくなったのではなく、あからさまに飽きたからだろうし。まあその辺は、どんなことがあってもケツを拭く(←失礼)Fとの性格の差でしょうか。
いやもう、誤解を恐れずにいえば、FとAの違いは、性格だけしかない。Aは良くも悪くも「面倒くさがりで飽きっぽい」。説明もしないし、尻切れトンボでも気にしない。その代わりFでは到底不可能なジェットコースター感覚のある無軌道な作品が作れる。
違う言い方をすれば、資質や才能は完全に同等と言い切れると思うのですよ。
だからもしね、無理矢理「ドラえもん」の最終回を作るなら、Aしか不可能なんです。そんなん藤子プロがAに依頼するわけないし、Aも引き受けるわけない。自分の作品でさえケツを拭かないのに、盟友とはいえ他人の、いや盟友の作品だからこそ、やるわけがない。
しかし世界中を探しても、それが可能なのはたったひとりしかいない。まったく同じ資質を持ったAしか、ね。
ま、もしそんなことになっても、他のスタッフが説明を補足しなきゃいけないし、尻切れトンボにならないように監視が必要だけどね。