どうしてもわからないことわざ(なのか?)に「他人の不幸は蜜の味」ってのがあります。つまり他人が不幸になることに喜びを感じるということでしょう。
でもアタシはね、何で他人が不幸になると嬉しいのか全然わからないんですよ。
つまりテストでいえば、100点満点中自分は1点しかとれなかった、でも0点の人がいて、2ちゃんねる流にいえば「ザマァwwww」ってことなんでしょうけど、自分が1点しか取れなかった事実は何も変わらないわけですよね。そんな底辺で勝った負けたって争って何になるんだと。
もし自分が99点で、でも100点の奴がいた。じゃあどうします?
100点の奴が98点で、自分は前回と同じ99点。たしかにこれでも一番にはなれます。だけれどもね、他人が落ちて一番になって嬉しいのかなと思うんですよね。
どうせなら奴にはまた100点を取ってほしい、でも自分は101点を取るぞと思うかどうかな気がするんです。もちろん実際に101点なんて点数はあるわけないのですが。
何綺麗事いってんだ、と思う人もいるでしょう。でも他人が落ちることによって自分が上にいけたとしても、それは単に気のせいですからね。なんとなく自分が上にいった気分になれるだけで、実際は何も変わっていないという。こんな虚しいことはないんじゃないかと。
もちろんアタシも人間ですから、自分の嫌いな人が不幸になると喜びを感じる人の気持ちはわからんではない。でもそれとて「嫌いな人」に限定されるわけで、けして「他人」と一括りにしていいものじゃないような気がするのです。
これは綺麗事でも何でもなく、アタシは好きな人であろうが嫌いな人であろうが、自分に関わった人が全員幸せになってほしいと思っているのです。
嫌いな人、というのは、言い換えれば自分にとって不都合な人といえるわけです。そんな人が不幸になると「物凄くよくない形で自分に関わってくる可能性がでてくる」と思うんです。
はっきりいって嫌いな人とは絶対に関わりたくないですよ。どうしても止むを得ない時でも必要最小限に留めたい。となると自分と全然関係ない世界で幸せにやってくれるのが一番被害が少なくて済む。
だから綺麗事でもなんでもなく、ある意味非常に冷たい考え方なのかもしれません。嫌いな人にたいしてはどんな形であれ、絶対に手助けしたくないって考え方ですからね。
「他人の不幸は蜜の味」であろうが「嫌いな人の不幸は蜜の味」であろうが、アタシには理解できないというわけでね。まあこういうことをいう人は向上心が全然ない人なんだろうなとは思うわけです。でもそんな人にいいたい。
虚しくないですか、と。そしてそれはあなたにとって本当に得なことなんですか、と。